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●凡例
(1)日本の教科書では、次の教科書から引用・掲載した。
  ・三省堂刊『詳解 日本史』三訂版(1991年版)
  ・実教出版刊『高校 日本史』三訂版(1991年版)
  ・東京書籍刊『新訂 日本史』(1991年版)
  ・山川出版社刊『新詳説日本史』(1991年版)
横書きを縦書きに改め、算用数字を漢数字に改めた。文中で、日中関係に直接関連しない記述を省略した。

(2)中国(台湾を含む)の教科書では、次の教科書から引用・掲載した。(図版を含む)。
 翻訳は、それぞれの章の執筆者が当たった。
 ・高級中学課本『中国近代現代歴史講座』(必修)(全一冊)
   人民教育出版社歴史室編、人民教育出版社出版、1990年版
  ・高級中学課本『世界歴史 下冊』
   人民教育出版社歴史室編、人民教育出版社出版、1990年版
  ・高級中学『歴史 第三冊』
   国立編訳館主編、国立編訳館(台湾)出版、1990年版
文中で、日中関係に直接関連しない記述を省略した。

(4)教科書からの引用文および資料中の〔 〕内の記載事項は執筆者注である。

1日清戦争と下関条約
■日本の教科書では
防殺令事件で挑戦をめぐる日清関係が緊張していた1874(明治27)年春、宗教結社の東学などが指導する大規模な農民戦争(甲午農民戦争)が挑戦に起こった。朝鮮政府は新国軍の応援を求め、日本も清国に対抗して出兵。外国特に日本の侵略を恐れた農民軍は政府と和解し、朝鮮政府は日本軍の撤退を求めた。しかし日本は、挑戦が清国との習俗関係を断ち、内政を改革するよう要求して挑戦の応急を占領した。日清両軍は7月25日の海戦をきっかけに戦闘を開始し、8月1日、日本は深刻に宣戦布告をした。日清戦争の開始とともに民党は政府の戦争政策を支持し、政府と議会の対立は解消した。大本営が置かれた広島で開かれた臨時議会は、戦争に必要な予算などを一挙に成立させ、国民も戦争を支持した。近代装備で統一された陸軍は、平城を攻めて大勝し、清国領に侵攻し、小型の高速軍艦で編成された艦隊を持つ海軍は、黄海の海戦で鈍重な清国艦隊を破り、陸軍は清国艦隊の根拠地、旅順口・威海衛を占領した。清国は講和を求め、1895(明治28)年4月、下関で全権伊藤博文・李鴻章らの間に下関条約が結ばれた。この条約で、清国は挑戦を独立国と認め遼東半島と台湾・澎湖諸島を日本に割譲し、償金約3億円を支払うほか、沙市、重慶、蘇州、杭州の開市・開港と、そこでの投資の自由などを認めた。沖縄領有をめぐる日清間の問題は自然に解消した。
下関条約の内容は、満州(中国東北部)南下を策していたロシアを刺激した。ロシアは軍事力を背景に、ドイツ・フランスと共に日本に対し、清国への遼東半島の返還を強く勧告してきた(三国干渉)。イギリスが中立の態度をとり、日本は独力で対抗する力がなかったので、やむを得ず約4千5百万を受け取る代わりに遼東半島を返した。国民はこれを大きな屈辱とし、「臥薪嘗胆」を唱えてロシアに対抗する気運が高まり国家主義的な傾向が強まった。政府もまた、ロシアとの戦争に備える新たな軍備の拡張を始めた。
(実教出版 『高校日本史』P243、ℓ4~P224、ℓ12)
■中国の教科書では
1894年、朝鮮南部全羅道古阜一体で、全奉准を指導者とする農民一揆がおこった。これが挑戦歴史上有名な甲午農民戦争である。1894年1月、全奉准を指導者とする何千人もの農民が古阜において、倉庫を襲い、食料を農民に分配し、兵器倉庫の武器を奪い、大規模な一揆をおこした。全奉准は「遂滅倭夷」(倭夷とは、日本侵略者を指す)と「滅尽権貴」というスローガンを掲げて、反帝反封建の精神を表した。多くの農民が熱狂的にこの呼びかけに答え、一気の規模はますます拡大していった。一揆軍は緒戦で勝利をおさめ、漢城(ソウル)へと進軍していった。一揆軍は、各地で多くの群集の歓迎と支持を受けた。こうした強大な農民勢力に狼狽した朝鮮統治者は、中国清政府に援助を求めることを決定した。6月、清政府は軍隊を派遣し、朝鮮に上陸させた。侵略を拡大する機会を待っていた日本も、すぐに朝鮮に出兵し、漢城を占領し、政変を起こさせ、親日の売国政府を組織した。日本は清政府の勢力を朝鮮から排除するために、甲午中日戦争を挑発した。腐敗した清政府はこの中日戦争で日本に敗北し、日本の侵略勢力は挑戦を手中におさめた。1895年3月、全奉准はこの動乱の犠牲になった。この嵐のようにすさまじかった農民一揆は、日本の侵略軍と朝鮮の反動軍隊によって鎮圧されてしまった。
(『世界歴史 下冊』P93、ℓ16~P95、ℓ1)

◎解説
日本と台湾の教科書はそれぞれ違った立場で書かれているがほぼ同じ記述であるのに対し、中国の教科書では、朝鮮の農民一揆の記述に終始し、日清戦争や下関条約についてはほとんど触れられていない。また清政府に批判的な立場からの記述であることもうかがえる。
                               (望月圭子・林呈蓉)
2日中戦争P155
■日本の教科書では
1937年7月7日、北京郊外の盧溝橋で日中両国軍の武力衝突(盧溝橋事件)が起こった。近衛首相は、不拡大の方針を声明しながら、その一方で、華北への派兵を認めたため、宣戦布告が行われないまま戦争は本格化した➀。戦火は華北から華中に広がり、中国軍の強気抵抗を受けながらも、同年末には首都南京を占領した②。1938年1月、近衛首相は「国民政府を対手とせず」と声明して、満州国のような親日政権の出現を期待し、これと和平交渉を持とうとしたが、かえって中国民衆の抗日意識を高めるだけに終わった。日本軍は華南にも戦線を拡大したが、政府を重慶に移した蒋介石は、イギリス・アメリカの援助と抗日民族統一戦線に支えられて、徹底抗日を国民に呼びかけた。日本政府と軍部の短期決戦の見込みははずれ、日中両国が総力を挙げて戦う全面戦争に発展していった。
➀日本政府はこの戦争を始め「北支事変」ついで「支那事変」と称したが、国際連盟総会は戦争とみなし、日本の行動を不戦条約違反であると決議した。

②日本軍は、数週間の間に、南京の市街地の内外で、婦女子を含む多くの中国人を殺害した。その数は、捕虜を含めて約10数万人と推定されている。この事件は南京大虐殺として諸外国から非難を浴びたが、日本国民はその事実を知らされなかった。
(東京書籍『新訂日本史』P305、ℓ18~P306、ℓ19)

■中国の教科書では
・「七・七」から「八・一三」へ
1937年7月7日、8年間にわたる抗日戦争の発端となる盧溝橋事件がついに勃発した。7月7日の朝、日本の侵略軍は盧溝橋の近くで軍事演習を行っていたところ、兵隊が一人失踪したと嘘の理由を挙げて宛平県城にその捜索のために入ることを求めてきた。現地の駐留軍はこの要求を退けた。ちょうどその交渉を行っている最中に日本軍はなんと宛平県城に銃撃を行い、続けて盧溝橋を砲撃してきた。中国側駐留軍は「日本軍には抵抗してはならぬ」という政府の命令を顧みず、日本軍の侵攻に対して勇敢に抵抗・攻撃した。盧溝橋事変が、その後8年にわたった抗日戦争の幕を開くことになった。

・2つの戦場
日本軍は広東省の沿岸から上陸し、すぐに広州を占領してしまった。日本の侵略軍は至る所で放火・殺人・強姦・掠奪を行い、中国人民に前例のない大きな災難をもたらした。日本軍は1937年12月に南京を占領すると、こともあろうに人間らしさのかけらもない大虐殺をおこなった。彼らは殺人を楽しみ、強姦や略奪を名誉と考え、けだもののような暴行で「大競争」まで行ったのだ。この大虐殺は1カ月余りの長きに及び、殺された無辜の南京市民は30万人以上にも達した。
南京大虐殺の中で、南京市民は生きたまま穴に埋められたり、焼き殺されたり、白兵戦の対象として内臓をえぐり取られたり、女性は強姦された後殺されたりした。南京市の家のうち3分の1が焼かれた。死者の白骨はあちこちに散らばり、瓦礫は山を成し、繁栄を誇る歴史的な古都は突如としてこの世の地獄となった。日本の侵略者が作り出したこの地の負債は、中国人民にとってはどうしても忘れることのできないものだ。

◎解説
1937年7月7日の盧溝橋事件により、日中両国は宣戦布告なき全面戦争に突入した。中国共産党はいち早く全面抗日のための国共合作を強く訴えていた。日本は「暴支膺懲」の態度を一層硬化させ、8月に上海に侵攻、市民ぐるみの頑固な抵抗にあうや、11月に杭州湾に援軍を上陸させ、一気に江南を攻撃、12月に入城すると、南京大虐殺と呼ばれる大量殺戮と破壊を行った。当時、南京は国民性具の首都であったが、国民政府は、11月にはすでに四川省の重慶に移るべく武漢まで撤退していたため、首都南京船長は大きな意味を持たなくなっていた。中国側の教科書でも「死者は30万人以上」と記述している。
中国の教科書(中国近代現代歴史講座)では、全14章、169ページのうち日中15年戦争に2章(抗日の烽火 上下)、25ページとかなりの分量をとって詳述している。その内容は、中国共産党の主張、政策、歴史観にピッタリ沿っており、南京大虐殺、三光作戦など残虐極まりない日本軍国主義批判と並んで蒋介石の中国国民党の反面抗日の路線の問題、国民党の共産党攻撃などであり、教科書も政治宣伝の一環となっている。こうした中国の教科書と対照させる意味から、台湾の教科書の一部も取り上げた。教科書の主張は、そのまま共産党と国民党の政治的主張となっている。(大崎雄二)


3敗戦と日中関係
■日本の教科書では
中国戦線でも、共産党主導下の解放区が拡大し、日本軍は苦戦した。ドイツ敗戦後の7月、アメリカ・イギリス・中国は、三国共同でポツダム宣言を発表し、軍国主義の打倒と平和主義・民主主義の樹立が連合国の対日基本方針であるとして無条件降伏を求めた。

■中国の教科書では
1945年7月、中、米、英三国はポツダム広告を発表し、日本に無条件降伏を促した。8月、ソ連政府は対日参戦を宣告し、続いてソ連の百万紅軍は、中国東北部にいた日本関東軍に対して大進撃を行った。こうして、抗日戦争の最終段階が訪れた。これと同時に、毛沢東は「日本侵略者に対する最後の一戦」の声明を発表し、「中国人民のあらゆる抗日勢力は全国的規模の犯行を行い、ソ連およびその他の連合軍と密接かつ有効に協力作戦を行わなければならない。」と号令を発して兵を召集した。
1945年9月2日、日本は正式に降伏の調印式を行い、第二次世界大戦は終結を宣告された。
1945年9月3日は、中国の抗日戦争勝利記念日となった。
中国人民は、8年の苦難な闘争を経験して、多大の犠牲を払ったが、わずかに調査可能な統計によると、中国軍民の死傷者は2100万人、財産の損失と戦争による消耗は約一千億米ドルに達した。8年の抗日戦争の中で、中国共産党指導下の八路軍、新四軍およびその他の人民抗日武装部隊は大きく成長した。8年の抗戦を経て、解放区の人口は150万人から1億人へと増大した。人民軍隊の主力は、3万人余りから120余万人へ、民兵は200余万人へと増大した。このように、中国人民は、国民党反動派の進攻を打ち負かすに比較的十分な力を備蓄し、新民主主義革命を全国的勝利として勝ち取るための比較的強固な基礎を築きあげた。

◎解説
日本の無条件降伏による第二次世界大戦の終結は、満州事変から数えても15年、日華事変から数えても8年に及ぶ日中両国の不幸な戦争状態を経験してきただけに、それは、政府間関係の変化だけなく両国の国民にとって大きな意識の変革を迫られた歴史的転換点であった。敗戦と連合国による占領は、日本国民の心理に大きな挫折感や無力感をもたらしただろうし、逆に中国の民衆は、長期の抗日戦争に勝利したことでナショナリズムの勝利を実感しただろう。しかし、それがすぐ国民の安定と平和につながったわけではない。戦後の中国には、国民党の指導する国民政府が依存存在したものの、抗日戦争の下で勢力を拡大した中国共産党との間に、内戦の危機が訪れようとしていた。

日本の教科書は敗戦と日中関係に関して、45年8月15日の無条件降伏に至る経緯を当時の国際情勢の展開の角度から簡潔に記述しているのに対し、中国の教科書は、中国共産党の延安総司令部や各地軍区の戦果を高く評価し、蒋介石の国民政府軍やそれを支援したアメリカへの批判的記述を行っている。調べてみて、戦争については日本の教科書では記述が少なく、中国の教科書では記述が多い。平和条約や国交樹立に関しては中国の教科書では記述が少ない、あるいは全くないことが分かった。互いが互いの都合のよい書き方をしていることが読み取れる。


第三節:日中戦争に対する記憶の違い
第一節と第二節を通じて、日中間の過去の歴史が現在の日中関係改善の妨げになっていることがわかった。では、その歴史に対する両国の認識の違いについてみていこう。仮説でも示したように、私は、日中関係においてたくさんある阻害要因の中で最大のものは、日本人と中国人の「戦争の記憶」の違いにあるのではないかと考えている。第三節を通し、この仮説が果たして正しいのかどうかを判断するための根拠をより確実にしていきたい。

◎不幸な歴史をどう認識するか
中国側の考え
・歴史は尊重すべきで恣意的に歴史を改竄してはいけない
・歴史の教訓を忘れてはいけないと強調する
・若い世代に対して歴史教育を行うべき

日本(の一部の人間)の考え
・戦後の日本人が誇りを持っていないと心配し、歴史を記述する際に日本の侵略事実を絶えず薄めようとし、意識的、無意識的に軍国主義を美化する。(一部)
・中国は内政の必要から問題を持ち出したり、「内政干渉をするな」を錦の御旗にして外からの批判を拒む。(一部)
・「旧いことを持ち出すだけでは、何の前途もない」
※上記三点と対立した考え方として
・日本配線の事実を認め、歴史の教訓をくみ取り、アジア各国と共存共栄、平和発展の道を歩もうとする考え。(この考え方が主流となっている)

参考資料⁵
平和学のレジュメで使用した図、解説
他国に対する動きは逆に自国に大きく影響する

◎日中平和友好条約
■日本の教科書では
福田壮夫内閣は円高による不況の克服、貿易黒字問題の解消などで欧米諸国との摩擦解消に努力し、また中断されていた中国との平和条約の交渉を再開し、1987年に日中平和友好条約を締結した。(山川出版社『新詳説日本史』P358ℓ11~13)

■中国の教科書では
日中平和友好条約についても記述はない。
日中平和友好条約調印までには、3年9カ月もの時間がかかり、交渉は「覇権」条項をめぐってかなり難航した。だが、その経緯については日本の教科書にも記されていない。ただ、日本の文部省は、1986年に日中間の教科書問題が再燃したとき、日本のある教科書が「対ソ方位を明確に意識する中国、全方位外交に立つ福田康夫内閣の間で交渉が難航した」との部分を削除するよう要求したと言われる。
日中平和友好条約は、将来の「日中友好」の側面に力点を置く日本側の意に反して、短期的にはソ連を刺激し、中国による米日中の「反ソ反覇権連合」の形成に一役買うことになった点は否めないし、中国との傾斜にマイナスな影響を与えたといえる。

◎日本の敗戦直後の中国の世論の関心
当時の中国(知識人)が最も関心を抱いたことは、日本における戦後の天王星存続の問題と根強い軍国主義教育の除去の問題が含まれていた。つまり、戦前の日本軍国主義を「復活」させないためには、天皇制廃止、軍部・軍閥、財閥の解体、官僚制の改革、政党の民主化、教育制度の徹底的改革、軍国主義思想・民族的優越感の一掃…などがぜひとも必要であるとの「日本民主化」要求が、国共双方を含めた中国の世論として強く表れていたことは、当時の中国の対日言論の表出として押さえておく必要がある。こうして「日中軍国主義復活」非難は、戦後の日中関係史において登場する中国の常套句となるが、そうした主張の論理的基礎は、敗戦直後のこうした対日言論に端を発すると共に、「日本軍国主義」の戦後の「復活」を防止するための「日本民主化」の徹底化が、天皇制の維持をはじめとして戦後アジアの冷戦の進行とアメリカの対日占領政策の変化によって方向転換を強いられたことにも由来すると言ってよいだろう。
第四節:憲法9条をめぐる問題
これだけ軍国主義復活が中国はもちろんアジアにも恐れられている、にもかかわらず、現在日本は憲法9条(平和主義)を改訂しようとしている。自衛隊も国防軍と名前を変え、日本が軍国主義国家へ逆戻りしてしまいそうな悪い予感がする。今の若者は政治にはほとんど興味がないと言われ、うまくそれを利用されている気もする。これから日本はどうなってしまうのだろうか?憲法の問題を考えてみる。

第五節:日本から見た中国、中国から見た日本、その他


◎日中の今後
国共産党は日本の政治家の選挙の得票を左右することまでできる。
日本軍と長年闘っていた父、蒋介石も、日本を愛する気持ちを抱いていた。中華民族と大和民族は民族間の恨みを抱いてはならないと思っているため、蒋介石は戦後、「徳を以て怨みに報いる」と説いたのだ。日本人も中国人も互いに本音で交流をすべきだ。

その他グラフ等。
・参考資料¹:「アジアから見た日本」
金両基 ― 編 河出書房新社 韓国 金両基・韓相一 中国 呉寄南 毛里和子
1994年7月5日 初版印刷 1994年7月15日 初版発行 発行者 清水勝
・参考資料²「中国人強制連行の生き証人たち」
第一刷発行:2003年8月1日 著者:鈴木賢士 発行所:株式会社 高文研
・参考資料³「中国人は落日の日本をどう見ているか」
著者:莫邦富 Mo Bangfu 装丁者:中島かほる 発行者:加瀬昌男
発行所:株式会社 草思社 1998年8月10日 第1刷発行
・参考資料⁴「近代現代史の中の日本と中国」
1992年11月8日第一刷発行 編著者:中嶋嶺雄 発行者:東京書籍株式会社
発行所:東京書籍株式会社 印刷所:東京書籍印刷株式会社
・参考資料⁵「戦争を知るための平和学入門」
2000年6月10日 第1刷発行  2008年3月5日  第6刷発行
著者:高柳先男 発行者:菊池明朗 発行所:筑摩書房
# by m-seminar | 2013-11-09 14:56 | レジュメ(平成24年度入ゼミ生)
2013年10月21日 三澤ゼミ課題 
0410026 皆川真里江
卒業論文構想
第一章:日中関係における戦争・政治・教育の影響

第一節:日中関係史と日中の現状
現在、日中間には尖閣諸島問題や靖国神社参拝問題など、沢山の問題があり、その関係は冷え切っていて悪くなる一方である。果たして、どのような過去が現状を引き起こしたのか?過去の歴史は現在の日中関係にどれほど強い影響を与えているのだろうか。
第二章で取り上げる「狙った恋の落とし方」という映画の参考資料として先生に貸していただいた本に次の表現があり、気になった。

p214 ℓ2~「戦後の日本人は、(日本の近現代史に中国との戦争が占めた割合がほとんどであったという)過去を忘れ、あるいは忘れたふりをして生きてきた。しかし、中国の大地に暮らす人々は、否応なく戦争の記憶と向かい合って生きなければならなかった。さらにその後の中国の歴史自体も苛酷なものだった。彼らは日本に対し深い思いを抱いて長い月日を過ごした。そして中国がやっと一息ついたとき、「狙った恋の落とし方。」を見て、中国人は涙を流した。その涙の意味を理解する歴史的責任が、日本人にはある。(一部省略)

やはり、戦争の記憶が日中関係に大きく影響していると言えるのではないか?
では、過去にどのような事件や戦争が起こったのか、年表で見てみる。

近現代・日中関係略年表(日本と中国)
1894  8.1  清国に宣戦布告(日清戦争始まる)
1895  4.17  日清講和条約調印
1896  7.21  日清通商航海条約調印
1900  6.21  清国、北京出兵の8か国に宣戦布告(北清事変)
1909  9.4 日清間、間島に関する協約・満州五案件に関する協約調印。
1914  7.28  第一次世界大戦勃発
1915  1.18 「対華二十一カ条要求」提出。 / 5.4 五・四運動
     5.9 対華二十一カ条要求受諾(5月9日は中国国恥記念日となる)
1927  5.28  日本、第一次山東出兵 / 4.19  日本、第二次山東出兵を決定
6.4  張作霖爆殺事件
1931  9.18  日本軍、柳条湖事件を気に東北地区を占領(満州事変始まる)
1932  1.28  日本軍、上海に侵攻(上海事変)
1837  7.7  盧溝橋事件、日中全面戦争に突入
    8.13  日本軍、上海攻撃開始 / 12.13 日本軍、南京占領(南京大虐殺)
1938  5.19  日本軍、徐州占領 / 10.27 日本軍、武漢占領
1941  12-  日本軍、香港攻略 / 5⁻   日本軍、三光作戦開始
1945  8.15  日本、「ポツダム宣言」受諾、降伏を表明(第二次世界大戦終了)
    9.9  在華日本軍、降伏文書に署名
1951  9.8  サンフランシスコ平和条約調印
1952  4.28  日華平和条約調印
1972  9.29  国交正常化に関する日中共同声明
1978  8.12  日中平和友好条約調印
1982  7.-  第一次教科書問題
1986  6.-  第二次教科書問題
1989  6.4   天安門事件

わずか100年の間にも、日中間には多くの戦争、事件、侵略などが繰り返し行われている。ちなみに、1980年代には特に、日中両国はそれぞれの領域における交流と協力を発展させた。双方の触れ合いが増々増え、相互理解も絶えず深まってきた。政治の分野から見れば、日中両国の政治家による相互訪問が最も多い10年間だった。両国政府要人による定期協議の制度もでき、「平和共存、平等互恵、相互信頼、長期安定」の4つの原則も確立された。
その一方、80年代は両国関係が悪化した日もあった。例えば1982年と86年には、日本が高等学校教科書で中国侵略の歴史を改竄した事件が2回。1985年、日本の首相と1部の閣僚による一級戦犯の霊を祀った靖国神社への公式参拝で関係は揺れ動いた。1989年の天安門事件以後、日本が西側諸国の中国制裁に加わったため、日中関係は一時的に停滞した。

様々な事件での日本の態度や認識の低さ、悪さが積もり積もって中国人の不満を産み、現在の日中関係が出来上がってしまったのだろう。戦争での記憶には生々しさがあり、やはり最も関係を悪化させた原因であると考えられる。私はもちろん戦争に直接かかわったわけではないので、映像や本の中でしか戦争の悲惨さを知ることができないが、想像はできる。隣国同士、本当は協力し合って上手く付き合っていくべきであるのに、中国国民が現在、何か問題が起こるたびに過去を思い出してしまうのもわかるような気がした。
過去の歴史認識に対する認識と実際の処理には一定の距離があり、互いに矛盾し合う見解と方法がある。もちろん、片方がいつも絶対に正しく、片方は絶対に誤りであるとはいえない。しかしこれは一種の異なる歴史の経験と文化背景の相違によって引き起こされた感情のもつれであり、歴史的わだかまりが引き起こした結果である。また、このような認識の違いにより、教科書問題や靖国神社参拝問題など様々な事件が起こるきっかけや悪化の原因になると言えるのではないか。
◎求められる日本の誠意ある解決
大切なのは歴史に学ぶことである。歴史を隠したりごまかすことならば、近隣諸国をはじめとして国際社会の信頼を回復することは不可能だろう。99年、中国人強制連行と慰安婦の問題で、「強制労働に関する条約に違反する」と指摘を日本は受けた。被害者に対する個人保証がされていないからだ。以後毎年、同じような勧告が出されている。日本は、国際条約違反という恥さらしを今も続けている。

◎現在の日中関係
■日本の教科書では
自由主義諸国のみならずソ連・中国をはじめとする社会主義諸国やアジアの国々との一層の相互理解が急務となっているが、日ソ間の北方領土う問題をはじめ依然解決されなければならない問題が多い。(三省堂『詳説日本史』P334、ℓ10~P345、ℓ25)

■中国の教科書では
現在の日中関係に関する記述はない。

現在の日中関係については、日本の教科書が簡単に日中両国に相互理解の必要性を記述しているのみで、中国の教科書には記述がない。だが、1980年代から今日に至る日中関係は、一方において政府、財界の指導者やマスコミが表面的な「日中友好」と両国関係の安定的発展を鼓吹する反面、他方においては、1982年夏の日本の小学校、高校歴史教科書の検定をめぐる問題、85年夏から秋の中曽根首相による靖国神社公式参拝問題など深刻な摩擦と係争が噴出した。とりわけ、1982年の教科書問題は、かねてから文部省の教科書検定方式に疑念抱いていた日本の一部マスコミが日中戦争史の書き換え問題として、誤報を含めてプレーアップし、「かつての中国侵略を美化する歴史の歪曲がなされているので訂正せよ」との中国側の激しい抗議が外交ルートを通じて日本政府になされたことから、一台外交事件としてクローズアップされたのだ。本来日本の内政問題であった教科書検定問題が、中国側の強硬な「日本軍国主義復活」非難に遭遇して、日本政府の中国への陳謝という形で決着したことは奇妙な物だった。
こうして現在の日中関係は、過去の歴史の生清算が不十分なために、中国側の「高姿勢」と日本側の「低姿勢」が構造化し、噴出する摩擦と係争を一時的に解消するのみで本質的解決にならず、潜在的摩擦の種を増大させるという悪循環から脱し切れていない。そうしたなかで、日中国交20周年の1992年には、天皇訪中をはじめとした各種記念行事が進行しているが、他方において中国内部では、国会に当たる全国人民代表大会において巨額の対日戦争賠償要求も議論されており、ここでも過去の清算が再び問題となる。また、1991年1月の湾岸戦争を契機とする国連平和維持活動への日本の自衛隊派遣問題は、92年8月の国会でのPKO法案の成立としてとりあえず決着したが、中国はここに至って、日本の「軍事大国化」には反対しながらもその「政治大国化」については容認し、日本を中国外交の世界戦略の中に取り込む姿勢を見せ始めている。

◎日中の人的往来(単位:人)
日本 → 大陸大陸 → 日本日本 → 大陸大陸 → 日本
19728,0529941982136,10920,532
197310,2381,9911983161,55926,606
197412,9902,1611984227,55926,606
197516,6654,4411985287,546100,972
197618,8254,0181986334,30175,275
197723,4454,0391987418,33173,030
197840,5755,9511988476,571112,389
197954,07411,6221989394,887100,144
198071,47318,3361990366,550117,814
1981109,97717,5501991428,587132,852
(作成:中華民国国立政治大学国際関係研究中心、問題と研究出版株式会社)


第二節:中国の日本に対する認識と日本の意向
中国には中華思想という考え方があり、それは簡単に言ってしまうと、中国が一番偉いという考え方である。それに基づき中国では幼いころから「日本=悪い国」という教育が徹底的にされてきていると言われている。では、それはどのようなものであるのだろうか。政府の考え方は民間人にどのくらい影響されているのだろうか。

中国人権力者は日本との関係をどう考えているのか。
◎1956年に当時日中関係の責任者だった趙安博は、こう述べている。
・中国は他国の賠償で自国の建設を行おうとは思わない
・一般的に巨大な戦争賠償を戦敗国に課すことは、第一次大戦後のドイツの例で明らかのように、平和のために有害である。
・戦争賠償を責任のない次の世代に背負わせるのは不合理である、と賠償問題への中国の原則的立場を明らかにしている。

◎周恩来総理は1972年の日中国交正常化の時に「前事を忘れず、後の戒めとする」と提唱した。これは日中関係に取り組む際に遵守すべき重要な原則であり、2つの意味がある。


中国側:後退すれば侵略されるという過去の教訓をくみ取り、自らが外国勢力に分割される対象にならぬようにすること。

日本側:対外侵略が日本国民をも含めたアジア各国人民に強いた重大な犠牲の教訓を読み取り、新たな戦争災難を繰り返さないように望むこと。

◎87年に光華寮と防衛費のGNP1%突破をめぐって関係がこじれた時、鄧小平(当時中国共産党中央顧問委員会主任)は次のように日中関係全般についてこう不満を述べた。
「率直に言うと、日本はどの国よりも中国に対する借りが一番多い国であると思う。国交回復の時、われわれは戦争の賠償の要求を出さなかった。両国の長い利益を考えてこのような政策決定を行った。東洋人の観点からいうと、情理を重んじたのだって、日本は中国の発展を助けるために、もっと多くの貢献をすべきだと思う。この点に不満を持っている。」
(訪中した矢野公明党書記長への談話。「朝日新聞」1987年6月5日)

72年は日本にとっては日中関係再出発、中国の認識では過去の継続であるといえるだろう。

では、国交正常化後、日本はどのような動きをしているのだろうか?
1972年9月、日中両国の有識者が長期にわたって努力した結果、田中角栄首相は思い切って中国との国交正常化を実現し、中国を訪問しようと決断した。田中内閣は「過去数十年にわたって日中関係は遺憾ながら不幸な経過をたどってまいりました。この間わが国が中国人民に重大なご迷惑をおかけしたことについて、私は改めて深い反省の念を表明するものであります」と述べた。また、共同声明前文は次のように言う。「日中両国は一衣帯水の間にある隣国であり、長い伝統的友好の歴史を有する。両国国民は、両国間にこれまで存在していた不正常な状態に終止符を打つことを切望している。」

円満に成功を収め、日中両国関係の新しい1ページが開かれた、ように思われたが…、
今現在日中関係は最悪である。それは何故なのか?原因は?

それは…、一部の権力者が戦争の侵略的性格をごまかし、または認めようとしないばかりでなく、侵略戦争を再三にわたって美化し、軍国主義を擁護し、様々なもめ事を作り出して日中関係の正常な発展を妨げていたことではないか?
まさにこれこそが10年間の日中関係で数多くの風波が立った根源である。

国交正常化の時、当時の上海関係機関の調査では、次の3つの危惧と不満があげられた。
➀日本に騙されないよう、対日交渉の担当者に友好の言葉に騙されないよう注意を促す。
②日本に対して賠償を求め、日本に得をさせないこと。
③あのころ日本兵は銃剣を以て中国で殺人や放火を行ったのに、いま、赤絨毯を敷き礼を
尽くして日本の首相を歓迎することは感情的に受け入れがたい。

この3つの危惧や不満をもとに、1985年秋、および86年から87年初めにかけて、北京、西安、上海などの都市で学生デモが発生し、一部の大学生は、日本商品の中国市場への流入を「経済侵略」であり、中国を「再び占領」しようと意図していると主張し、政府の関係機関は日本の旧悪を言わず過去の恨みを忘れるよう大衆を説得したため、金に目がくらんで民族のプライドを失ったと批判した。戦争の被害を具体的に受けた当事者である中国国民一人一人にとっては、決して満足すべきものでなかった。戦争責任問題、賠償問題のすべてが同時に解決したというわけではない。しかし、近代化を至上課題としている中国政府が基本的には対日関係の悪化はどうしても避けたいと考えていることは、85年秋に学生たちが「中曽根反対」「日本商品ボイコット」を叫んだ時中国政府が必死に抑えたことからもわかる。この出来事は、過去の戦争に対する人々の不愉快な記憶を甦らせている。

中国人は自分のことを大きく見る傾向がある。本当は一個人として日本を見ているが、あたかも中国人全体が、中国という国が日本を見ているような口調で発言する。実はそこが落とし穴だ。自分たちは小さい頃から共産党の教育、「地下道戦」の影響を多く受けてきた。それによって、国という概念と個人の行動を一緒にして物事を考える習慣が身についてしまった。けれども国を強調しすぎると、程度の低い民族主義に走ってしまう恐れがある。国家意識が中国人の一人一人に深く浸透していることを認めなければならない。しかし、72年、中国政府は日本の歴史認識を認めたが、国民はそれを不満に感じている。ただ共通しているのは、上記から考えると、すべての問題は戦争及びその処理の問題と絡むことになると言えることである。

両国では子供のころからそれぞれ歴史教育がされているが、それぞれどんな内容なのだろうか?教科書での教育はどのくらい民衆に影響を与えているのだろうか? 参考資料⁴
# by m-seminar | 2013-11-09 14:55 | レジュメ(平成24年度入ゼミ生)

2013年8月16日 合宿課題

2013年8月16日 三澤ゼミ合宿課題
0410026 皆川真里江
卒論テーマ「戦争の記憶と日中の相互理解」

序章
第一節:研究動機
第二節:仮説(問題提起)
第三節:論述方法

第一章:日中関係における戦争・政治・教育の影響
第一節:中国での日本についての教育・考え方とは
第二節:日中戦争に対する記憶の違い
第三節:憲法9条をめぐる問題
第四節:日本から見た中国、中国から見た日本、その他 

第二章:文化交流から見る日中友好
第一節:映画「非誠勿擾」
第二節:中国における日本アニメの影響
第三節:中国人に人気の日本食

第三章:日中友好におけるITの可能性について
第一節:中国人のインターネット依存度
第二節:中国のコミュニケーションツール事情
第三節:ネットは日中間の相互理解に有効か

終章:日中の相互理解・友好のためには
まとめ
日中の相互理解は実現できるのか?
仮説の答え
序章
第一節:研究動機
生まれ育った埼玉県川越市の外国人観光客数が激減したことを知ったことがきっかけ。
現在、観光客数は回復傾向にあるが、テレビなどで日中関係が冷え切っていることが取り上げられ、この状態をどうにかできないかと思い、このテーマで卒論を書くことにした。

第二節:仮説
日本人と中国人の交流機会を増やし、相互理解を深めることで日中友好に少しでも繋げることは可能なのではないだろうか。

第三節:論述方法
戦争に関する記憶と政治問題にも関連した互いの印象やと、今までの日中友好の取り組みの両方からアプローチし、これからの日中の相互理解について考える。


第一章:日中関係における戦争・政治・教育の影響

第一章では、中国における日本教育について触れる。中国は徹底的な中華思想で、小さい頃から「日本=悪い国」という教育を受けている。また、日本に旅行できる人なども限られた一部のみであり、日本人と語り合って相互理解ができている人も少ない。このような状態で、中国人は日本に対してどのように思っているのだろうか。
更に、中国では昔の戦争の記憶が強く受け継がれている。その一方日本人は戦争を過去のものと捉え、自分には関係ないと考えている人が多い。この事実に中国側は非常に憤りを感じているようだ。現在中国が核などで威嚇してくるために日本国憲法改正がニュースで話題になっているが、この憲法改正が「戦争」というキーワードとこれからどうリンクしていくのかも注目して考えていく。

第二章:文化交流から見る日中友好

第二章では、現在までに行われてきた日中友好の取り組み(映画・アニメ・食)について調べると共に、これからの日中友好についてのヒントを得たいと考えている。冷え切った関係が叫ばれてはいるが、文化交流によって「日本=悪い国」というイメージは少しずつ崩せていけるのではないか。ここでは、文化交流における民間人の動きと、政府間で行われている取り組みについて調べ、それがどのように伝わっているのかという問題と、更に「敵国に向けられた脅威は敵国に影響する以上に自国の社会に強く反映する」という重要な点にも焦点を当てて考えてみる。
第三章:日中友好におけるITの可能性について

第三章では、中国のネット事情とITによる相互理解の可能性について述べる。現在、中国も日本もIT国家と言われるほどのネット社会である。しかし、中国では政府によるコミュニケーションツールの規制が大変厳しく、日本人とコミュニケーションが取りにくいことも日中関係が悪くなる一方の原因となっていると考えられる。そこで、現在中国でのネット事情、規制はどのようになっているのかについて調べて把握することから始める。更にこれからの日中の相互理解のためにネットは有効な手段となりえるのか考える。

終章:日中の相互理解・友好のためには
1~3章で述べたことをまとめ、そこから仮説の答えを考え導き出す。


今回の課題
日本と中国に関して起こりうると考えられる、構造的・直接的・間接的な暴力の要因を
シュミレーションし、それが解決可能か不可能かを見つける。

<構造的暴力> ※差別、偏見など 
構造的暴力とは、行為主体が不明確であり、間接的・潜在的なアプローチで行われる暴力の形態のことを呼ぶ。国際政治の課題が東西冷戦から南北問題に移行するにつれてこれらの問題が顕在化してきており、これらの問題は人類が生存する限り存在する問題であることから、解決することは不可能とされる。(ウィキペディア)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A7%8B%E9%80%A0%E7%9A%84%E6%9A%B4%E5%8A%9B

疑 →本当に解決できない問題なのか?
確かに、完全には解決できないかもしれないが、改善はできるはずだ。
例えば、中国人の子がある日突然転校してくることがあるかもしれない。中国人のことを良く思っていない日本人は差別や偏見をするかもしれない。しかし、一緒に過ごしていくうちに個人として良く思うようになる可能性もある。潜在意識やイメージがあると、人は流されてしまいがちだが、自分で実際に行って確かめてみたり、互いにきちんと話をしてみたり、国単位では良いと思えなくても個人的にはよく思えることがあるはずだ。

答 大きく見れば解決は不可能かもしれないが、小さな差別や偏見などは解決することができると考えられる。

2013年8月3日 13:57 (サーチナ)
【中国BBS】日本人を殺し釣魚島を奪還するゲーム…解放軍が開発
http://topics.jp.msn.com/wadai/searchina/article.aspx?articleid=1992810

中国大手検索サイト百度の掲示板に「人民解放軍のオンラインゲーム“光栄なる使命”は微妙だな」というスレッドが立てられた。同ゲームは、尖閣諸島(中国名:釣魚島)に上陸して自衛隊と戦い、中国軍の施設を取り戻すという設定で、中国人民解放軍が開発したゲームだ。
掲示板は日本好きが集まる掲示板のためだろうか、スレ主も「ゲームの質自体はまぁまぁなのだが、題材がちょっと…」と微妙な反応だ。
中国のネットユーザーからは、
・「アホな反日青年どもはハイテンションだろうな」
・「グッドニュースじゃないか。反日青年たちには妄想させていれば良い」
・「愛国の志士たちは爽快だろうなぁ」
・「これは妄想の宴だな。反日愛国青年たちが楽しめば良い」
と、同ゲームは反日愛国青年向けであるとの意見が多く寄せられた。

尖閣諸島をテーマにしたゲームに不快感を示すユーザーもいて、
・「また抗日がテーマか。もう日本を悪く言うのはやめてくれよ。日本は本当のところとっても萌えるんだから」
・「ゲーム自体はおもしろいんだけど、釣魚島を使って政治的なテーマにしているのには反感を覚える」などの意見もある。

ゲームのクオリティについても賛否両論があり、「ゴミだ」、「おもしろくない」というユーザーと、「ゲーム自体はよくできている」というユーザーがおり、意見は分かれた。また、「これは民用版だが、軍用版のほうがおもしろい」という意見もあった。
ほかには、「このゲームでは中南海を攻撃できるのか?」という質問があったが、できるわけがないであろう。中南海とは、北京にある中国共産党の本部で、政府要人の居住地であり、つまりゲーム内で反政府的なことができるのだろうか、と質問しているようなものだ。

中国政府はたびたび「中国は平和を愛する国であり、平和的台頭を目指している」などと主張しているが、このようなゲームを開発・リリースする時点で「平和を望んでなどおらず、目的のためには手段を選ばない考え」であることが分かる。

(編集担当:畠山栄)(イメージ写真提供:123RF)

<直接的暴力> ※ 戦争、核攻撃、など
直接的暴力とは、構造的暴力が蓄積された時にそれを破るために訴えられるもののことを言う。その対象はナショナリズム、宗教、イデオロギーなどである。
戦争をしまいと思っていても、一方的に攻めて来られることもあり得る。そのため、簡単に解決できるとは言えない。人間は暴力的存在であり、暴力を引き離すことはできないからだ。しかしその暴力をコントロールして暴力を使うことなしに人間観の紛争を解決することはできる。つまり、構造的暴力を積み重ねず解決していくことで直接的暴力を併発せずに済むということだ。

答 直接的暴力は、一人一人の思いやりや相互理解によって防ぐことができる。


<間接的暴力> ※ 憲法改正、メディア(伝達)、放射能、など
◎ウィキペディアでは、構造的暴力=間接的暴力となっている。

参考資料:「『国防軍』私の懸念」
2013年3月11日第1刷発行
著者:伊勢崎賢治/小池清彦/柳沢協二 発行者:竹村正治 出版社:(株)かもがわ出版

■護憲派に残された戦略はあるのか
世論は時に、それ自体が熱狂し、頼りない政治家を逆に引っ張ることもある。その結果、人間は自分たちの「平和」を守るために、あるいは「自衛」のために、後になっては誰でも後悔する「戦争」という愚かな政治行為を、性懲りもなく繰り返してきた。誰であれ、自分だけは戦争を生み出すような熱狂とは無縁だと思わないほうがいいだろう。というよりも、自分も熱狂することがあるのではないかという冷静な自己分析ができるかどうかに、9条、つまり戦争をしない平和を守ることができるかどうかの帰趨がかかっているように思える。

◎「国益のためには9条」の議論を
9条は世界平和のためだとか、夢のような話ではなく、「国益」の議論に乗るのだ。著者は「額麺通りの9条」と「自衛隊の存在」という、理想と現実の乖離、そして矛盾があっても9条が生む「矛盾の実利」をよしとする考えを持ってきた。ほとんどすべての先進国が戦争している現在、これだけの経済大国なのに戦争をしないと宣言している9条の存在は、日本が経済的に利害関係のある相手諸国と付き合ううえで、どれだけの信頼を醸成させることになっているだろうか。戦争を仕掛ける国じゃないから、かつての敵国にも受け入れられてきたのだ。
逆に、そのイメージが失われた時の経済的ダメージも評価が必要だ。特に日本と領土問題を抱える中国、韓国との関係では、日本と同様、どこの誰でも備える被セキュリタイゼーションの脆弱性に加え、もう時間の忘却に頼るしかない「歴史的被害者意識」という厄介なものがある。これらの国と付き合ううえで、9条を失った時のセンセーショナルな反動を考慮に入れなければならない。

答 間接的暴力は、人の考え方はそれぞれなので解決することは難しい。
# by m-seminar | 2013-11-09 14:53 | レジュメ(平成24年度入ゼミ生)

2013年5月8日課題

小問 権力がこうだ!!と言ったことを私たちが簡単に受け入れやすいのは何故?
→権力者が「常識」を創っていて、人はその常識を簡単に受け入れるから
(例 東日本大震災 (政府という権力者たちを疑うことなく信じてしまった)

何故、人は常識を簡単に受け入れるの?
→秩序が効かなくなった時に自分に跳ね返ってくるのでは?という恐れがあるから。

「常識」は創られている!だからこそ判断する必要がある!

学ぶことで判断できる→だからこそ学ぶことが大切。

大問 差異ではなく差別が生まれるときってどういうとき?
→差異に環境要因が関わる時ではないか。

※環境要因
権  ・文化的(教育、言語、宗教、etc)
・社会的(政治制度、裁判、etc)
力  ・経済的(貧富の差(親や国の経済力)、雇
   攻撃(排除意識)
差異   ←    権力者

※権力者が何らかの意図を以て情報を操作し、差異を排除しようとして攻撃すると
 差異が差別に変わる!

(例 フライドグリーントマト

疑問! なぜ権力(者)が生まれるのか?
→権力者たる証拠(=環境要因(教育))を示せるから。

権力者と環境要因は、相互関係にある!!

私たちは人種差別を経験していないので、権力者が創った常識を聞いたまま受け入れるが、権力者が絶対とは限らない。

しかし、自分のために、自分の考えを持つために学ばなければならない。

だからこそ常識を疑うことが大切である。(学ぶことに意味はここにある!)

常識を疑うために、学べ!!
# by m-seminar | 2013-11-09 14:47 | レジュメ(平成24年度入ゼミ生)

9月26日課題

卒業論文構想

2013年9月26日
中国語中国文化学科 4年
山本美優



タイトル 「SNSで中国民主革命は成功するのか?」(仮)

序章 はじめに

①研究動機
②仮説「微博の普及によって中国は民主化するのでは?」
③そもそも‘民主化’とは何か?

2章 中国版twitter微博とは

①微博とは?
(SNS・Twitter・微博の説明。触れたことのない人にもわかりやすく!)
②微博が注目される理由
微博が中国の民主化を促す?!と各国から注目・期待される理由
(都市・農村との情報格差問題。メディア普及率・教育水準等他国と比較しながら
 データを提示し、中国においての微博の存在を論じる)
③140字で政府に立ち向かう市民たち
②の具体例。(高速鉄道事件<微博が台頭した事件である>南方週末事件
 <既存メディアが微博を使用し、反政府の発言をした>うかん村<農村での
 微博&80後・90後の活躍>
 →これらの理由から、他国から中国での微博が民主化の道具になるのでは、と
  注目される!と示す。

3章 中国ジャスミン革命はなぜ成功しなかったのか

①「微博が台頭するも‘究極の民主化‘を達成しないのはなぜ?!」
2章を受け新たな疑問
  「微博によって事件の発覚・市民による議論は達成。また村・町といった
   小さな行政レベルでは市民の声が通った。しかし事件発覚やデモの首謀者が
   お咎めを受け、党のトップには大きな影響はなかった。これでは1章で定義
      した‘民主化’にはたどり着いていない。あれほど注目された‘中国ジャス
ミン革命も失敗に終わった。なぜだろうか?」
② SNSが国を動かした!―アラブ諸国の民主化成功理由―
民主化の成功例である「アラブの春」を取り上げる。
※若者がSNSを利用し政府に訴えかけるという過程が中国と類似するため比較
対象とする。
リビア・チュニジア・エジプトの例を取扱い、成功要因を探る。
その中でデータや政治体制の相違など理由を提示し、アラブ諸国と中国の差異
を論じる。
③3章まとめ 
②を受け「中国ジャスミン革命」が失敗に終わった原因を考察。(①の疑問の答え)
    経済状況・一党独裁体制の影響。「このままでいいや」と満足してしまう市民…等

終章 結論・考察
①2・3章を受け「微博によって中国の民主化は達成するのか?」答え
‘民主化’の定義に沿い答えを出す。理由
②微博が導く中国の未来
現時点で民主化は達成せず、しかし微博の可能性は?今後どう影響する?
尖閣問題・薄熙来氏の例を取り上げる。自国の未来について語り合える場ができた意味
④自らの考え・新たな問題提起など…
卒論テーマにあたり自分の考察。中国の民主化に対し何を思うか。
微博を含むSNSと現実社会の在り方・未来など…











「民主化」定義
民主主義を「作る」試みと、それを超えるもの

農村地域での選挙運動の様子(インドネシア)
農村地域での選挙運動の様子(インドネシア)
一般的に、民主主義(Democracy)がある程度静態的なものとして想定されやすいのに対して、その字のとおり、「民主化(=民主主義化)」とは、この「民主主義」に到達するプロセスだとイメージすることができます。このように考えると、民主化を説明するためには、まずもって「民主主義とは何か?」について明確にしておく必要があるでしょう。

古代ギリシャ時代から現代まで、民主主義という概念は、恐怖や賛美または羨望といった様々な感情を呼び起こしながら、さまざまなかたちで論じられてきました。しかしながら、とくに現代政治学(political science)の文脈では、例えば国民国家やコミュニティーといった特定の社会集団のなかで生じる政治現象を、できるだけ客観的かつ科学的に捉え、また、それを比較することが目指されてきたために、この民主主義という概念もそのような目的に添ったかたちで定義されるようになりました。
おそらくこのような定義づけの試みの中で、もっとも洗練され、広く普及しているのがR.ダール(Robert A Dahl)による民主主義の捉え方だと言えるでしょう。彼はまず、民主主義を「政治体制の原理」として限定し、それを、市民の政治参加の程度(政治的平等)と、公に異議を唱えられる程度(政治的自由)という二つの要素から測定可能なものとして定式化しました。そして、この二つの要素を構成する、市民的・政治的諸権利(表現の自由、結社の自由、報道の自由、選挙権、被選挙権など)が、実際に行使される一つの機会として「自由・公正な選挙」が注目され、また、その実施のされかたによって民主主義か否かが判断できると考えられるようになりました。

すなわち、このような民主主義の定義(これを「手続き的民主主義」と呼びます)に則るとすれば、「民主化」とは自由・公正な選挙の実施を目標とし、それを担保するような市民的・政治的諸権利が獲得・整備されるプロセスだと理解できるのです。

民主主義を「作る」
では、そもそもなぜ(why)そしてどのように(How)民主化が生じるのでしょうか。

かつて、「民主主義」そのものというよりも、「民主主義的な社会」を構築するための条件が議論の中心であった時代、そのような条件とは、たとえば、一定の富と教養を備えた広範な中間層が存在していることや、寛容と穏健さを基調とした市民的政治文化が根づいていることなどとされていました。

したがって、そこでの「民主化」とは、ある社会にこれらのような条件が整っていくことを意味し、それが可能なのは、近代化という経済・社会構造の転換を経験し、一定の豊かさを手に入れた一部の国々(とくに先進国)だけだと考えられました。

しかし、1970年代半ばから世界中を席巻した「民主化の波」(S.ハンチントン)という現象が、このような従来の「民主化」観に大きな修正を迫ることとなります。なぜなら、多くの開発途上国のように、かつては民主化が実現すると想定されていなかった国々で、それまで禁止または制限されていた市民的・政治的諸権利が少しずつ容認されただけでなく、自由・公正な選挙の実施が目標とされたからです。つまり、この民主化の波という現象は、もはや「民主主義」が、ある特定の歴史的条件を備えた国においてのみ生まれてくる「社会のあり方」ではなく、むしろ人為的に作られうる「制度」なのだという認識が広まる契機となったのです。

さらに、このような予想外の国々で次々と起こる民主化という現象は、現代政治学の領域にも新たな転換をもたらし、これ以降、従来のような「民主化の原因の究明(why?)」だけでなく「民主化プロセスの進め方(How?)」といったきわめて実践的・戦略的な問題も議論されるべき重要なトピックとなりました。例えば、G.オドンネルやP.シュミッターらの共同研究を嚆矢とした「移行論(Transitology)」という新しい研究潮流においては、実際に民主化に関与する様々な政治アクターの戦略的な相互作用に力点が置かれ、権威主義体制から民主主義体制へという比較的短期的な「プロセス」が分析の対象となりました。そしてこの流れは「定着論(Consolidology)」へと引き継がれ、自由選挙の実施を経て「民主主義」を実現した国が、今度はそれをいかに定着させるのかについて様々な議論が展開されました。

「手続き的民主主義」を超えるもの
以上のように、20世紀後半に生じた「民主化の波」を契機として、少なくとも政治制度や政治構造の側面においては、多くの開発途上諸国も先進国と同列に論じられうるようになりました。そして、まさにその出発点となったのが、「手続きから定義する」という発想に基づいた民主主義や民主化の理解だったと言えるでしょう。

しかし、ここで注意せねばならないのは、もしそもそも「政治」というものが「ある集団に属するすべての人に係わるような事柄を決めること」だと定義されるとすると、ここまで論じてきた民主主義(や民主化)とは、おもにそこでいう「決め方」に関わるものであるということ、そして、民主主義の具現物としての「選挙」とは、結局のところ、「誰が決めるのかを決めること」に過ぎないという点です。

あえて指摘するまでもなく、科学技術の高度化や情報の専門化が進み、ますます複雑化する現代社会での政治においては、膨大な政策領域の夥しい数の政策案件を、迅速かつ着実に処理していく必要があります。ここに、いわゆる官僚やテクノクラート、そして利益集団(圧力団体)が政治に深く関与する余地が生じ、実際の政治の領域が、その主役だと想定される一般的選挙民どころか、彼らが声を託すべく決めたはずの代議員の手さえ届かないところに広がっていく可能性が生まれるのです。

すなわち、多様かつ多数の人々からなる社会集団において、そもそも決めるべき事柄(政策課題)だけでなく、その決め方(急進的・漸進的/強圧的・協調的・妥協的・対立的・二者択一的・・)や決定へのかかわり方(直接的・間接的)も無数にあることを考慮すると、「選挙」に還元または矮小化されがちな「民主主義」や「民主化」は、そこで展開される政治の、重要であるが「あるひとつの側面」を捉えるものでしかないということなのです。

「IDE-JETRO 日本貿易振興機構アジア経済研究所」
<http://www.ide.go.jp/Japanese/Research/Theme/Pol/Democratization/>
# by m-seminar | 2013-10-03 19:24 | レジュメ(平成24年度入ゼミ生)