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4月10日 提出課題


三澤ゼミ 春季課題
「山道と二つの作品を比べて」
中国語中国文化学科 0410089 望月 美佳 

私は三つの作品の中から「山道」という作品を選んだ。
 「山道」は、病院での医師と李国木とのやりとりから始まる作品である。そして、病室で寝込んでいる兄嫁とのやりとりから、様々な台湾の、日本統治時代からの時代の変化や当時の心情を著している。そして、終盤の「叛乱罪」で30年もの獄中生活から釈放され、本籍地へ移った「抗日派」の黄貞柏といういい名づけへの兄嫁の手紙が印象的な作品だ。
 「山道」は、三つの作品の中で、私が一番惹き付けられて、夢中になって読めた作品である。その点からすると、「三本足の馬」にも同様のことが言える。「三本足の馬」では、読み進めるにつれて、作品名に「三本足の馬」とつけた理由が明らかになってくるため、気持ちよく読み終えることができた。地の文で疑問符や感嘆符を用いており、自問自答のような形式で書かれているために、文章のテンポがよく、迫力がある「小説」では、時代の区分がはっきりとしているものの、夢中になったとはいえない。時制や人物関係が複雑であり、表現方法も独特であるため、読むことに戸惑いを感じた。文章のスタンダードな書き方は、「山道」も「三本足の馬」も同様であり、文章の雰囲気が似ている。しかし、二つの作品と違い、登場人物のセリフから始まる「山道」は、どんな人物がいるのか、今がどのような状況であるのか、これからどのような展開になっていくのを想像しながら読むことができる。「山道」では、病人、病室というキーワードから始まっているので、このような期待感がさらに高まる。それぞれの作品には、台湾の時代背景が影響しているためではあるが、「三本足の馬」と「小説」には、逃げる、隠れる、捕まるという、後ろ向きなイメージで書かれている。その点「山道」では、真正面から向き合う、立ち上がるようなイメージで書かれているようだ。
 「山道」で印象的な場面といえば、兄嫁の手紙である。これは、兄嫁がかつてのいい名づけである黄貞柏に宛てた手紙で、当時の状況や人物の関係性、主人公の心情が明らかになる。最近では、亡くなった人間の手紙を生きている人間が見つけ、読むというスタイルの作品をよくみかけるが、やはり読む側としての衝撃は大きいだろう。兄嫁の手紙以外にも、思い出を振り返る場面は多く、読んでいるうちに生活の変化などが明らかになる。そこにこの作品のおもしろさを感じた。「小説」では初めから人物の関係性が明らかになっているようであり、「三本足の馬」は、作品名に納得のいく場面がある以外はやはり人物関係がはっきりしているため「山道」のようなおもしろさは感じられなかった。先に述べたように「山道」にも、作品名をつけた理由があるだろう。兄嫁の手紙を読んだとき、初めは黄貞柏との思い出の場所であったからだと捉えていた。しかし、当時の状況の変化に伴い、兄嫁はその変化に慣れてしまい、黄貞柏といた頃と気持ちが変わってしまった。黄貞柏と出会った頃の気持ちを取り戻さなければならない、初心に戻るような思いで、「山道」とつけたのだと考える。さらに、黄貞柏といた頃は兄嫁にとって思い出であり、忘れる事のできない時であったのだろう。
 主人公の「恋心」という点にも注目したい。「小説」では、女房が主人公を匿っている場面が何度か登場するが、極端に相手に依存した様子は書かれていない。「三本足の馬」では、主人公が恋人を亡くして心に穴が開いている。相手が亡くなった時、自分も亡くなったかのような表現をしていて、夢に出てくるほど相手のことを想っていたのだろう。「山道」では主人公の切なく、複雑な気持ちが表現されている。兄嫁はいい名づけがいながらも、国坤に惹かれてしまう。国坤の嫁として嫁ぎ、人の為にと身を削っていたのは、黄貞柏がそのような人間であったからである。このような立場にある兄嫁に、もどかしい気持ちになった。
 最後に、「山道」が、兄・国坤が『晴れわたった空のもと、遠くかなたを見つめていた…』写真で終わるのは、国木が兄のことを想っていること、兄嫁の手紙から兄嫁が国坤を想っていたのだと感じた国木のこと、国坤達が見ていた『夢』が叶う日が来ることを国木が願っていることなど様々な解釈ができる。
 これらの点を踏まえて「山道」という作品を選んだ。

(1746字)
# by m-seminar | 2012-04-15 00:52 | レジュメ(平成24年度入ゼミ生)

4月10日提出課題

2012年三澤ゼミ春季課題   市川周吾


私が今回小説集「三本足の馬」の三作品の中で注目した作品は、陳映真の「山道」である。まず最初にわたしが陳映真の「山道」を選んだ理由は2つある。1つ目は3作品の中で思わず泣いてしまった作品であったからである。そして2つ目は3作品の中で日本統治時代の悲惨な歴史の背景があまり語られていないのが興味深いなと思ったからである。率直な感想を言うと、「三本足の馬」と李喬の小説は悲しみと後悔でいっぱいの作品だなと感じた。誰にでも認められる人間になりたくて強みを持っている日本側の警察官になったが、日本の第二次世界大戦の敗戦によって強みや大切なモノを失い、運命から逃げた「三本足の馬」の老人、そして、日本という脅威に怯えながら逃げ、本来の自分を探し続けている曽淵旺。私は終始この2人の登場人物の生き様に悲します気分にさせられた。

さて、もう一方の「山道」はというと、辛かったはずの昔話を病床の兄嫁が語るところは思わず考えこんでしまった。原因不明の緩慢な衰弱によって死に近づいていることで本来なら絶望でいるはずの兄嫁も国木に大切なことを伝えたくて仕方がなかったのだろうと思った。兄嫁のメッセージはとても心にも響いた。特に私が印象に残ったところは兄嫁が国木の家に来たのは苦労するためだったと打ち明けるところである。この言葉を言った後、思いが吹っ切れたのか兄嫁が涙を流しそうになった。まさか兄嫁がそんな言葉を言うとは全く想像できなかった国木は読者である私たちと少しリンクしたような気がした。また作中で兄嫁のことを途中病人と表現したところも私は信じられなかった。この遠回しな言い方に私はあまり納得できなかった。私なら国木が兄嫁のことを快く思っていなかったのならこの表現を使っていたが、兄嫁を母親のように慕っていた国木であったからこそ使ってほしくなかった。そして、兄嫁が亡くなった後、国木が見つけた病床で書いたであろう兄嫁の手紙を読むシーンは私にとって一番の名シーンだった。兄嫁が心の奥底まで抱えていた気持ちを全面に出したなと感じた。今まで語られなかったことにようやく気が付いた国木も涙を流すところで私たちは初めてこの作品の核心を掴めた気がする。



私も今年の2月に祖母を亡くしたが、少し認知症だったせいかあまり本音などを聞いてあげられなかった。その後祖母の遺品の整理をしていたら、この作品の兄嫁のように手紙が見つかった。手紙を書いた日付が認知症の兆候が出始めたときであった。手紙の内容は親族に迷惑をかけてすまないという謝罪文だった。おせっかいなままのイメージで留めておいてほしいと手紙の最後に書いてあり、兄嫁の手紙の最後とも似ているなと感じた。

そして、もう一つ「山道」と比べて日本の日本統治時代のことを鮮明に記されている「三本足の馬」と李喬の小説はあまりに生々しいものだった。三本足の馬では老人が少年時代に同化政策による厳しい日本語教育、李喬の小説では日本軍の弾圧など。このように、私はこれまで台湾文学小説というもののほとんどは反共産主義のことや日本統治時代の苦しみを語るものだけだと考えていた。特に「三本足の馬」と李喬の小説のように日本から受けた傷を体現し、作品を通して民衆の心を動かす。しかし、ただ単に自分たちの考え方や意見を間接的に主張することで敵に対抗してきた台湾文学だけではなかった。おそらく時代背景を駆使し、新しい考え方を台湾の社会全体に広げられるものなんだなと感じた。
# by m-seminar | 2012-04-14 20:52 | レジュメ(平成24年度入ゼミ生)

4月9日提出課題

三澤先生二〇一二前期研究ゼミ 春期課題
中国語中国文化学科 三嶋一子

今回三作品を読んで、私が選んだ作品は『山道』である。その理由は、他の二作品、『三本足の馬』と『小説』とは異なる視点で読むことが出来たからである。
 ところで、『山道』は誰の話なのか、『山道』の主人公とは誰なのかと言えば、それは国木と、国木の兄の嫁としてやって来た兄嫁の二人ではないだろうか。話は、国木を軸にして進んでいくのだから、国木が主人公なのは頷ける。しかし、視点を変えてみれば、もう一人の主人公は兄嫁であると言えると私は考える。今回はこの兄嫁に、特に視点を当て、考えてみた。
では『山道』が他の二作品と異なる視点をもって書かれている、その視点とは何であろうか。私はそれが、日本の台湾植民地化に消極的に参加している点であると考える。他の二作品は積極的に日本の台湾植民地化に参加すている視点で書かれているのに対し、『山道』では主人公が積極的に日本の植民地化に関わっていかない視点で書かれているのである。
『三本足の馬』では、四本足によって明確に作られた、警察内部だけにはとどまらない、鉄の格子の外と内と言う圧倒的な権力の関係を目の当たりにし、三本足として生きることで鉄格子の外の人間として力を手に入れた白鼻のタヌキが出て来るが、このような行動をとった白鼻のタヌキは、積極的に日本の植民地化に参加し、その当時は、白鼻のタヌキ自信も、彼個人の精神的満足を得ている。
『小説』では、デモに参加し、三本足からも四本足からも逃げる羽目になった男が出て来る。この男には実際、明確な民族意識などによりデモに参加したのではなく、ただ生きるために、生活の障害をもたらす四本足に反発するという、とても人間らしい理由がきっかけである。しかし、日本の植民地化によって自分たちの生活が苦しくなっていく事に対して反発を感じたことは確かで、そこから脱却するために、デモに参加したことは確かである。そういった意味では、『小説』に出て来る男も、日本の植民地化に反発することで、植民地化に積極的に参加していたことになる。
それに対して『山道』の兄嫁は、日本の台湾植民地化に積極的に参加した、兄嫁の初恋の相手や夫の影響もあり、関節的に参加している。兄嫁の行動は自分を追い詰めることで、台湾という国や大切な人たちの思いを守り繋げることである。兄嫁は外に対して行動を示すのではなく、自分の内に向かてt行動で示した。自分で自分を追い詰めることで、自分を犠牲にすることで、個人ではなく台湾という国を守ろうとしているように感じられ、そこには明確な民族意識がある。自分を苦しませるのは自分であるのだから、兄嫁には、『三本足の馬』で言う鉄格子の外も内も関係ないし、『小説』で言う自由への逃走もない。しかし、実際には日本による台湾の植民地化の参加を全くしていないわけではない。それは、兄嫁が日本語を話している描写からもよく分かる。兄嫁は植民地化に対して消極的な態度で示したが、結局は参加しているので、結果的に見て、兄嫁は消極的参加をしていることになる。
このように、『山道』では、他の二作品とは異なり、個人ではなく台湾という国を見つめる視点と、台湾の植民地化に対して消極的に参加する視点が書かれている。それまでの二作品は、自国を守るためというよりは、日本の植民地支配に対して、個人の様々な問題が関わってきて、それによってさらに苦しんだり、時には利用したりして、あくまで個人の生活の中での影響などが書かれていた印象が強いが、『山道』では明確に国と国の、自国と他国の意識が強く出ていた。更に、自国のために個人が犠牲になるのを厭わなかったり、豊かになった自分を恥じる気持ちまで生み出す、植民地というシステムの恐ろしさを改めて感じられた。
また、今回台湾の小説を読んで、私の生きていない時代の話だけれど、どこか現代にも通じるところがあることに驚いた。ただ、戦争や植民地時代の、私の体験したことのない話を紹介しているだけではなく、例えば、『三本足の馬』で言う、鉄の格子は、現代社会でも存在を感じる時があり、時代を超えても変わらない課題があるのだなと思った。
# by m-seminar | 2012-04-14 20:27 | レジュメ(平成24年度入ゼミ生)

4月10日提出課題

三澤ゼミ 春休み課題『三本足の馬』を読んで
           0410088  箕輪 幸香

この三作品を読んだ中から一作品を選び、論じるということで、今回私は「三本足の馬」を選んだ。その理由は、三作品読み終えた中で最も印象に残る作品だったからだ。それがなぜなのか自分なりに他の二作品と比較しながら論じてみたいと思う。

三作品とも日本占領下、中国占領下における当時の台湾の人々の姿が描かれている。しかしこの「三本足の馬」は他の2作品とは違い、支配される側の話ではなくする側の話であった。ここに描かれているのは権力や欲に溺れ大切なものを失った一人の男の姿である。もちろん他の2作品も政府の圧政に苦しみ、反乱分子として連行、処刑をされることに怯え、一方その不条理さに怒り、愛する人を無くし悲しみ、といった人間の負の感情を作品内に漂わせ読者の心をも乱すようなもので、軽い気持ちで読めるものではない。しかしこの「三本足の馬」はそれをもはるかに凌駕するもので、この作品にあふれているのは、驕り、自責の念、後悔、悲しみ、恥といったものであった。しかしこの小説の不思議なところは、こんなにも重い内容でありながら比較的すんなりと私自身の内部に入ってきたところだ。その理由は主人公がどこにでもいるようなありふれた人間像というところであると思う。他人に対する妬み、強さへの渇望、そして自分が人の上に立った時の優越感。これはだれしもが持っている感情である。だからこそ、この作品を読んでいると、自然と共感し、違和感なく気付かぬうちに一つのモノとして自分の体のなかになじんでいくような感覚を覚えた。またこの作品の特徴としては読みやすさが挙げられると思う。おそらくこの作品は誰が読んでも素直に飲み込めるものだろう。書式や内容が難しい作品は読者に考えることを要求する。この三作品の中では「小説」がそれに当たると思う。その中の主人公の意識と同じように作品自体が現実の世界を語っているのか、夢の中の世界を語っているのかわからない、なんとも朦朧とした印象を受けた。そこがその作品の味の部分と言えるかもしれないが、違和感や考える隙といったものは作品の世界との融合にストップをかけてしまう。しかし読みやすい作品は流れるように入ってきて、それを阻むことをさせない。場合によってはこの読みやすさが味気なさ、読みごたえのなさとなって裏目に出てしまう場合もあるが、この「三本足の馬」においては素晴らしい働きを担っている。内容は暗く重いものだが、この読みやすさの効果で読者が作品を受け入れやすくなっているのだ。ゆえに、読者が物語を読み進めるうちに自身と主人公を一体化させ、彼の人生の岐路の全てを飲み込むうちに、まるで自分が阿祥となりそれまでの全てを経験し、その重荷を背負ってきたかのような感覚を与えることができたのではないであろうか。
そして最後にこの作品のカギといってもいいのが、絶対に報われることはない、ということである。阿祥は自分と同じ台湾の人々はおろか妻子まで裏切ったのである。彼はいつか旧鎮の人々、そして愛する家族に赦しを乞うことを願っていたが、それは叶わず長い年月をひっそりと一人で過ごし、その間彼は自分自身を責め続ける。気付いた時には妻は死に、旧鎮もすでに自分が覚えているような街ではなくなり、彼を覚えている人はほとんどいなくなってしまった。つまり彼は罪を償うべき相手を無くしてしまったのである。それは彼を責める人々がいなくなったことを意味すると同時に、彼に赦しを与える人々もいなくなってしまったことを意味している。責められることもないが許されることもない。誰も彼のことを覚えていないとしても、許されることのない罪は消えることなく彼の中に生き続けるのだ。これこそ生き地獄と言えるだろう。「山道」もかけがいのない人を裏切り、そんな自分を恥じながら死んでいくというものである。この作品は「三本足の馬」と少し似ている部分もあるが、この作品にはまだ救いを見出すことができる。彼女は自分の秘密と罪を手紙に記した。その手紙が相手の手に渡れば、もしかしたら彼女の罪が許される可能性があるからだ。相手が存在するかぎり救いの可能性はあるのだ。それに彼女の場合、ひとりではなかった。彼女を大切にしてくれた家族がいつもそばにいてくれた点にも救いを見出すことができる。

ハッピーエンドよりもバッドエンドの方が読者や視聴者の印象に残ると聞いたことがある。
上で述べたような点を駆使し、最初から最後までが「バッド」に仕上げてあるからこそ私は強い印象を受けたのかもしれない。
# by m-seminar | 2012-04-14 14:06

4月10日提出課題

 私が選んだのは、鄭清文の『三本足の馬』である。選んだ理由は二つある。一つは他二作品に比べ文章が簡潔でわかりやすいこと。しかし、だからこそところどころ伏線が張られているのでは?と予測したり、見解の幅が広がるところが決め手となった。二つ目は、解説にも記してあった通り、「三本足」となった人物自身を内側から描いているところにある。その「三本足」になった主人公の心理描写が非常に興味深かったので、本作品を軸に3作品を比較しながら論じていきたい。
 
まず注目したいのが、この小説を動かす一つのキーワードでもある“眉間から鼻の頭へかけて通っている白い筋”。一見物語の主要部とはなんら関係ないように思えるが、終始、主人公・曾吉祥の‘コンプレックス’として描かれている。この‘コンプレックス’が上記で挙げた物語の伏線の一つと考えられる。解説には「このスティグマ(=白い鼻筋、コンプレックス)と、植民地体制とのかかわりは、二重になっている。(202ページ)」とある。幼少時代のある日、阿福おじさんが鼻に白い筋が通ったタヌキを捕まえたのを発端に彼の‘コンプレックス’による葛藤が始まった。そして、公学校で出会った暴力的で支配者側として描かれる「井上先生」とのやりとりを通して、今度は「被支配者」という劣等感も背負うことになる。ここで解説の言う“二重のコンプレックス”が始まるのだ。彼は出前先でからかわれたことにより、この植民地体制の仕組みを悟る。「阿祥は格子のこちら側に立ちたかった。(中略)阿祥は、この格子というものを、社会全体にまで拡大したかった」(25ページ)とある。彼は、格子の外側に立つことで、自分の二重のコンプレックスを癒そうとしたのだ。そして、注目したいのが‘格子’である。彼の精神世界では当初自分は、捉えられたタヌキと同様に鉄のかごの中にいた。それを三本足になることで、回避し一時は嫁ももらい安堵感を得るとともに、自分が被ったものを、同胞に暴力としてぶつけていく。だが、これは日本降伏後に環境がかわり再び自分を保っていた‘三本足’という格子から追い出される。本文では、二つの格子までにとどめてあるが、この二重のコンプレックスを抱える彼の均衡を保っていた‘三本足’という権力の格子に彼は閉じ込められていたと考えられる。このように、他の2作品に比べ一つ一つのキーワードに意味がこめられており、それが抽象的かつ印象的なので簡潔な文章でありながら、議論の余地がある文章となっている。

 次は「三本足」の視点から書いたことについて述べたい。「被支配者」である立場は3作品通じての共通項である。しかし、この植民地体制をどう受け止め、生きていくか、というところで各作品の個性が出てきている。大まかに括ってしまえば、『小説』『山道』は、残虐な日本統治に対し、主人公、および重要人物はその支配に屈しながらも、台湾人としてのアイデンティティを常に持ち合わせていたと考えられる。例えば、『小説』の曾淵旺は抗日運動のデモへ出かけたという記述がある通り、日本統治に納得していないようであるし、「山道」の兄嫁は台湾のために立ち向かった貞柏の意思を継ぐため・兄の罪を償うために、国坤の妻を演じきった。このように所謂‘台湾人としての自覚’を秘めながら、植民地体制で生きていく展開となっている。だが、『三本足の馬』の曾吉祥は ‘被支配者である台湾人の自分’から‘支配者側の三本足’へと転換する。ここが大きく他2作品と違うところであり、三本足になるまでの過程、渦中、そして日本降伏と環境変化と共に激しく彼の状況も変わってくるところが特徴である。

 『小説』では当初は抗日運動に参加するような人間が、逃避生活を経て精神的に‘罪人’となってしまい、『山道』では愛する人の潔白を信じ、意思を継ぐために他の男の嫁になりすまし、結局は自分が資本主義の‘家畜’ということを悟り絶望してしまう―といった体当たり的な主題はないのが『三本足の馬』である。しかし、‘白い鼻の筋’‘格子’‘三本足’といった強烈なキーワードを繰り返し提示することにより、まず読み手への印象付けができる。このキーワードが存在するからこそ、伏線を感じ取り何通りにも作品を解釈する‘読者への余白’がこの文章にはあると考えられる。そして、支配者側についた三本足からの視点がこの作品の最大の特徴だ。自分を救ったはずの‘三本足’という立場が、最終的には世間と分断させられ、一生の自負を生みだす原因となってしまった。他の2作品に比べて、全体的に静かに展開していくが、他2作品の中では嫌われ役で登場する「三本足」からの視点で、1人の男のコンプレックスから始まる植民地体制の残酷さが伝わる本作は、強烈な余韻を残す。
# by m-seminar | 2012-04-13 21:46 | レジュメ(平成24年度入ゼミ生)