4月10日火曜日 4限 研究ゼミ1
課題レポート
選択した文章…『三本足の馬』
私は、『三本足の馬』というタイトルを一目見たとき、以下のように感じた。一般的に人々の常識で知られている馬という動物は、4本の足を持っている。しかし、タイトルを一目見て私は違和感を覚えた。馬と言えば、草原を颯爽と走りぬける印象があったからである。馬は3本足では走ることが難しい。私は馬という動物に関しては専門的な知識は全く持ち合わせていないので、走ることはおろか、移動をすることも不可能かもしれないと予想する。では、この『三本足の馬』というタイトルには、どんな意味が、あるいはどんな思いが込められているのだろうか。私は、そんな疑問を抱きながらこの文章を読み進めていった。
『三本足の馬』の主人公の曾吉祥は、幼いころから「白いあざのある鼻」を持ち、友人たちや初対面の人にまで揶揄される。悪意を持って揶揄されることに不快感を覚えない人はほとんどいない。更に、当時の曾吉祥は、どんな意識を持っていようが被植民者には変わりなかったのである。彼は、周囲から自分に向けての言葉や態度によって彼自身の内面に劣等感を抱き、しかし、同時にその劣等感に対して反発しようとする意識も少なからずあったのではないかと考える。その、劣等感に対する反発が、曾吉祥を警察の組織としての存在の認識による「新しい」自己の確立を目指すことへの背中を押したのではないか。先ほど私が記した「新しい」という言葉であるが、これは以前の自分とは違った自分、つまり、既に変わった自分ということができる。曾吉祥の場合の以前の自分とは、周囲の中傷の言葉を受けて劣等感を抱いている状態のことであり、既に変わった自分とは、それに反発する意識によって劣等感を払拭しようとしている状態である。曾吉祥の場合は、テキスト(『三本足の馬』語られ始めた現代詩の沃野 202頁1行目から12行目)にも書かれている通り、そのスティグマ(恥辱)を晴らすために、同じく被植民者である台湾人の賭博行為を警察に通報することによって警察の一部となり、自分の存在を認識しようと試みたわけである。後に、台湾における日本統治時代が終息を迎えた時に、曾吉祥は台湾社会において裏切り者のレッテルを貼られた。日本統治の圧力に対する抵抗に乗り出した台湾人は、自らの安定した生活を奪った日本人に対して暴力を用いて反発したが、それと同時に日本政府の台湾統治に加担した台湾人に対しても暴力を用いて反発した。被植民者としての台湾人にとっては、日本統治に加担した台湾人も、自らの生活を奪った者には違いないのである。曾吉祥は日本政府の警察の一部となって活動していたのであるから、多少なりとも日本人への帰属意識を持っていたのではないか。当時の人々の意識において、「台湾人」と「日本人」の線引きはどこであり、また、一体何を明確な基準として区別しているのか。そもそも、その両者は容易に区別ができるものなのであろうか。私は、「台湾人」「日本人」という2つの単語を思い浮かべた時に、その答えを導き出すのは容易でないと理解していながらも咄嗟にこういった疑問が湧いてきたのである。
『小説』の主人公である曾淵あにいは、警察組織から逃げ回った。自分は犯人であるのか。そうであるならば、その事情を受け入れて刑に服することを決心するが、やはり彼も人間で、刑罰にただならぬ恐怖を感じているのである。『山道』に登場する蔡千恵は、流暢な日本語で手紙を書き、若い少女が夢見る将来の幸せな安定した生活を奪った形となった日本政府の台湾統治政策に反発しながらも、自らは苦労することを選んで既に亡くなった李国坤の妻を装って李一家に尽くすことを決心した。『三本足の馬』の曾吉祥は、『小説』の曾淵あにい及び『山道』の蔡千恵に比べて、自らの立場を大きく変えたという印象を抱いた。つまり、曾吉祥は、他の2者に比べて自分の意識をより日本人に近いところに持っていったのである。ただし、いくら日本人に近い意識と言っても、日本政府から見れば、彼はただの番犬のような存在に過ぎず、被植民者にすぎなかったのである。
1895年に下関条約の結果、台湾の領有権は日本が握り、台北に総督府が置かれた。それから、台湾の日本統治が本格的に始まったと言えるが、元来台湾に居住していた人は日本風に名前を変えることを余儀なくし、学校では日本語による日本風の教育をなされ、日常の会話も日本語を使うことを奨励された。つまり、台湾人は日本政府による皇民化政策を受け、事実としては一概に言いきれないところもあると思うが、日本政府の徹底的な教育改革や数々の政策によって、台湾人は自らのアイデンティティが揺らいでしまったのだという印象を私は持った。数多くの台湾人の中には、自らは台湾人であり、これっぽっちも日本人ではないという意識を持っていたものもいると思う。あるいは、日本式の教育や政策を受けて自らは台湾人でありながら、日本人としての意識も持ち合わせていた人もいたのかも知れない。当時の台湾における日本の植民地政策において、「台湾人」と「日本人」の区切りは明確な物差しは存在せず、人々の意識の中にそれぞれのアイデンティティが強く存在するが、時には周囲の環境によってそれが否定されることもある。自らは、「台湾人」の血を引くが、「日本人」としてのアイデンティティも自分の中に存在する時、身体は意識とは異なり、自らは完全な「日本人」ではないということに気付く。また、「日本人」の支配を受けていながら「台湾人」としてのアイデンティティが自分の中に存在する時、言葉や制度などが元来の台湾のものとは違う日本式のものになっていると気付いた時、自らはもしかしたら完璧な「台湾人」とは異なる存在なのかもしれないという考えに至る。そして、自分のアイデンティティを確定させる要素の不足を感じる。その時、「何かが足りない」という意識が『三本足の馬』の、もう一本の「足」であるのかもしれない。
(タイトル等を除いて2400文字)
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4月10日火曜日 4限 研究ゼミ1
課題レポートに関するレジュメ
選択した文章…『三本足の馬』
◎タイトル『三本足の馬』を一目見た時の私の印象
→ 一般に知られている馬という動物とは違い、3本足を持つ馬は違和感を覚える。
疑問「このタイトルにはどのような意味が込められているのであろうか。」
◎『三本足の馬』の中心的な人物である曾吉祥という人物
周囲からの中傷・侮辱
↓
内面に抱く劣等感への反発
↓
警察組織への所属による自己の確立
(『小説』の曾淵あにい・『山道』の蔡千恵より更に制度・身分的に日本により近い)
↓
日本統治時代が終息を迎えた時、自分はあくまで被植民者にすぎないと再認識
◎作品の時代背景における「日本人」と「台湾人」の違いとは何か。
→ 「台湾人」と「日本人」の区切りは明確な物差しは存在せず、人々の意識の中にそれぞれのアイデンティティが存在するが、時には周囲の環境によってそれが否定されることもある。
血筋「台湾人」/制度や言葉など「日本人」
1…「台湾人」<「日本人」の意識 しかし、身体的に日本人ではない。
2…「台湾人」>「日本人」の意識 しかし、制度や言葉は台湾式でない。
→ 自らのアイデンティティの確定材料の不足
結論「自らのアイデンティティを確立させる上で「何かが足りない」という意識が
『三本足の馬』の、もう一本の「足」である。」
以上です。モリ