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ゼミ連絡用


by m-seminar

4月24日 課題

モリユカ、6段落目です。
225ページの真ん中より少し上のあたりから。


 カール・フォン・クラウセビッツの戦争理論もまた、この種の「総力戦」或いは「全面戦争」は、一種の武力・資源・思想の総合的な作戦であると我々に教えてくれる。戦場が立体化及び全面化する事により、全国民が参戦せざるを得なくなる。戦争の拡大化及び組織化に因って、人員と物資の動員が極めて重要になる。尚且つ、組織ネットワークの拡充が、思想に対する戦争宣伝に於いて最も強力な武器となる。それは、彼我の人心の変化に関係しているのである。日本政府は1940年に設立した内閣情報局に於いてこの戦争を「総力戦」とした。それは、前線と後方を分けず、軍人と平民を分けず、ありとあらゆる力量を集結した国民戦争なのである。簡単に言うと、総力戦とは、武力戦・経済戦・宣伝戦などの各方面を総合したものである。
# by m-seminar | 2012-04-24 17:06 | レジュメ(平成24年度入ゼミ生)

4月10日提出課題

『三本足の馬』 台湾現代小説選Ⅲ 研文出版
 「山道」                      4月10日  関村蓉

 私はこの三作品の中で「山道」を選びました。理由は、この作品が一番読みやすく、一番感情移入が出来たからです。
この三作品は“ある政治事件”についての加害者、当事者、第三者の三つの類に分けられ、「三本足の馬」はいわば加害者の若い頃の話で、日本軍の権力の元で威厳を張っていた側の人間の視点から書かれていて、若いころの自分がしたことを反省し、後悔しているが、罪を償う対象である奥さんはもう亡くなっていて、いくら後悔しても、もう遅いんだという悲しい感情が伝わって来ました。この点では「山道」の次に感情移入ができました。
「小説」は当事者の話で、抗日運動に参加したものが逮捕されたあとの拷問のひどさが伺えるような主人公の心理がわかるような書き方だと感じました。そして、繰り返し似た内容を書くことで主人公の心の乱れ具合、精神が壊れていく様を強調したかったのではないかと思いました。しかし、やはり難しく感じたので、この作品を選べませんでした。
「山道」は第三者の視点から書かれているという印象を受けました。この三作品は“ある政治事件”についてこの三つの視点から書かれていて、その中でも、やはり「山道」が一番共感に似たような感情がうまれ、感情移入がしやすかったので、この作品を選びました。
 「山道」はある政治事件の犠牲者の妻と名乗るある政治事件には直接関わりのない第三者の兄嫁の話を中心に書かれていますが、特に最後の千恵さんがかつての許嫁の貞柏さんに宛てた手紙が感動しました。千恵は償いのために30年間やってきたが、結局高度経済成長期などを経て、資本主義に変わった社会に自分も馴染み、最後の数年間は貞柏さんを忘れてしまっていた、つまりは償い自体を忘れてしまっていたことを新聞で貞柏さんが釈放されたことを見てから気づき、そして生きる意欲を放棄してしまうことになるのですが、これは、貞柏さんたちが今までみずからの家族を放棄し、みずから苦しみを尽くして、他人のために生涯をかけたことを見てきたのに、それを忘れてしまったことに対しての反省、償いという初心を忘れてしまったこと、すっかり資本主義に染まってしまったことを反省し、そして、生きる意欲をなくすことがそれに対しての償い、二回目の償いだという風に感じられました。そして、一つ疑問に思ったことは、なぜ出獄したあとは昔よりもさらに苦しいものになるのかということです。資本主義となった今、形成したかった社会の形にはなっていなくても、少なくともあのころよりはましな社会になっているのではないかと私は思いましたので。
 作品背景については、「山道」ではある政治事件の犠牲者である兄の墓が建てられた話がありましたが、それが検閲を免れ、載せられているということは、台湾の民主化を示しているではないかと思いました。ということはやはり、なぜ民主化をされて資本主義にもなっている今が昔のように日本の統治下で自由もなかった頃よりも苦しくなるのかが疑問に思います。
# by m-seminar | 2012-04-16 10:24 | レジュメ(平成24年度入ゼミ生)

4月10日提出課題

0410052 新山

【選んだ1作品のタイトル:三本足の馬】

まず私が3作品の中から「三本足の馬」を選んだ理由は、日本統治期の台湾において、圧倒的な劣位に置かれていたはずの被統治者である台湾人が、必ずしも単純に支配されたりあからさまに抵抗していたわけではなく、時には自分に有利になるよう植民地支配を利用するしたたかさや狡猾さも持ち合わせていたことに驚きを覚えたからだ。
「三本足の馬」では「白鼻のタヌキ」と呼ばれていじめられていた曾吉祥が、巡査という特権的なポジションに依拠する様子が書かれている。そもそも曾吉祥は、被統治者であるがゆえに劣位におかれる台湾人の立場であり、そして鼻に白いあざがあるためにいじめられるという、台湾人の中でもさらに劣位におかれる立場の人間であった。曾吉祥が日本人の井上先生に殴られるのは、曾吉祥が統治者の日本人より劣位の台湾人であるからで、曾吉祥が井上先生に他の生徒よりもひどくなぐられるのは、曾吉祥が他の台湾人の生徒よりも劣位にあったからである。
やがてこの状況を打開する一つの手段として曾吉祥は巡査となること、すなわち日本人の手先となることを考え付く。巡査になることで曾吉祥は、統治者である日本人より劣位にある台湾人には変わりはないものの、それまで自身をいじめてきた台湾人よりは優位に立つという自身の立場の逆転を図ったのだ。このことは曾吉祥にとって生存戦略であったと言えるが、曾吉祥は結果として虎の威を狩る狐のような状態になり、権力は何にも勝ると思いあがることで台湾人を服従させることに抵抗を覚えなくなっていったのである。
しかし、曾吉祥が依拠していた権力は日本統治の崩壊とともに霧散してしまい、その後の人生は自分の一時の不純さを悔いながら社会との往来を絶つことになる。
ここまでの一連のストーリーを俯瞰して見ていくと「優位者VS劣位者」という図式があることが分かる。そしてこの図式の中にはさらに「支配―服従」と「保護―依存」の二面性を見出せるのではないかと考えた。台湾人である曾吉祥は、統治者である日本人の支配に服するが、同時に「鼻に白いあざがある」という理由でいじめられ続けてきた鬱憤を晴らすための手段として、日本人の持つ権力に依存し台湾人を服従させていくのだ。
               

そしてこの構図は他の2作品にも同様にあてはまるものではないだろうか。他2作品に登場する境遇もバックグラウンドも異なる台湾人に共通して言えることは、いずれもがより優位のものからの権力の抑圧や苦悶を受け続けており、現状に不満を抱いているということである。ただし、受けた抑圧や苦悶への対処の仕方がみな異なっており、「小説」の劉阿漢のように日本人の手先となることを目論むものの志半ばで頓挫するものや、「山道」の李国坤や黄貞柏のように権力に毅然と立ち向かったものの挫折し服従させられるものもいる。
いずれにしても皆、抑圧される現状を打破しようと立ち向かうものの結局は「支配―服従」と「保護―依存」の関係から逃れられずにいるといえる。
# by m-seminar | 2012-04-16 01:52 | レジュメ(平成24年度入ゼミ生)

4月10日提出課題

火曜4限 三澤ゼミ 春期休暇課題        
0410026 皆川真里江

私が選んだ作品は山道という作品である。なぜこの作品を選んだかと言うと、日本の台湾統治時代のことについて書かれているこの3つの作品の中でこの作品の文章の表現の仕方が私の心に一番重くのしかかり、深く印象に残ったからである。3つの話を読んでみて、それぞれの話の内容に3つの共通点があることを見つけた。そこでその共通点を、特に山道に出てくる内容を中心に取り上げながら詳しく考えていく。

1つ目は台湾人の生活が日本人の支配によって左右されていたということ。
三本足の馬という作品では、主人公阿祥は警察になることで台湾人に裏切り者とされた。阿祥は昔からずっと鼻に白い筋があるということでいじめられてきたが、警察になることで今まで被支配者だったのが支配者へと変わった。日本が戦争に負けることなどないと考えていたため、警察になってひどいことをたくさんしてきた。また、当時日本が計画を推し進めていた皇民化運動に積極的に参加したり、恋人玉蘭とも日本式で結婚式をやりたいと考えたりした。しかし日本の敗戦により裏切り者阿祥は台湾人に今までの行いを許されなかった。もし日本人による支配がなかったら阿祥はどうなっていたのだろう。もしかしたら死ぬまで白い鼻の筋のことでいじめられ続けていたかもしれない。阿祥は支配者になって恐れられていたが、それは日本という権力を後ろに背負っているからこそできたことだと思う。それを考えると日本の支配なしでは被支配者から支配者になることはなかったかもしれない。
日本は台湾統治時代に同化政策として日本語教育を行った。台湾偉人に日本語を植えつけ、また、台湾語や原住民の言葉の使用を禁止した。台湾人が日本語を勉強したことは山道という作品の終りのほうに出てくる、国木が兄嫁に対して日本語で話しかけていることや、兄嫁が国坤に当てて書いた手紙からもわかる。しかも文章中の表現に、彼(国木)が大学で習い覚えた日本語とはちがって、実に流暢な日本語でしたためられたと書いてある。兄嫁は日本の政策に反対していたのに、日本語を使っているということは、やはり日本の影響を受けているということになる。兵士となって日本のために戦争で戦った男性ではなく、女性も日本語教育などさまざまな政策の対象となっていたことが分かる。日本語を強制的に使わされ、また台湾語の使用を禁止されることは嫌なことではないのかと考えた。しかしいろいろなドキュメンタリーなどを見ていると、日本語教育を受けられてよかった、日本語を話せて嬉しいなど考える人もたくさんいることがわかった。それは意外でもあり日本人が台湾統治時代にしたことの中で、良かったと言えることなのかもしれない。

2つ目は日本の政策に抵抗した台湾人に対しての対処がとって非常に恐ろしいものだったということ。
山道の中に「あのころ、わたしたちが活動していた桃鎮では、約束もしないのに、いつも友人たちがいっしょになって、街をぶらぶらしたものなのよ。とおくからでもみかければ、ああ、誰それはまだ無事なのだなとわかる。もし何日か続けて見えない人がいると、彼は捕まったのだと判断したものなのよ」という部分がある。当時台湾人たちは集団でデモを起こした。そのためたくさんの人が逮捕され、国坤も大量逮捕にひっかかった一人であった。周りにいた人の姿が見えなくなると、次は自分が捕まり殺されてしまうのではないかという不安がつのっただろう。それを考えただけでも恐ろしい。

3つ目は日本の政策に対する台湾人の抵抗は、すべて生きるためであったということ。
山道には、このことが読み取れる表現がたくさん出てくる。例えば「ひたすら他の人々の幸福のために死のうとしている」「働く者の幸福のために、勇敢にもみずからを打ちくだいた人のために、私もみずからを打ちくだこう」「人があるべき生き方のために闘って」などがそれにあたるだろう。この世に生まれたからには、誰にだって生きる権利はある。それは当り前のことであるのに、日本人によって台湾人たちはその当たり前のことや幸せな生活を奪われてしまった。奪われたものを取り返そうとしているだけなのに幸せに生きることを求めることさえも許されない状況で、自由を求めると殺されるという、なんとも理不尽な時代であった。

以上のことから考えてもわかる通り、どの作品も日本による台湾統治のひどさは書かれているが、山道を他の2作品と比べると、3本足の馬や小説には、その当時の辛さや苦しみが全面に押し出されているが、山道はそうではなくて、辛さや苦しみというよりも、台湾人が日本の行った政策に対して、勇敢に戦った立派な生きざまが書かれている。それは、3本足の馬や小説が、実際にデモを起こして、逮捕されたり逃げ回ったり、実際に味わった苦しみをその当人が書いていて、山道は捕まった人々の周囲の人物によって書かれているために、内容が異なるのではないかと感じた。台湾人たちは、抵抗すれば殺されるかもしれないということはおそらくわかっていただろう。それにも関わらず、自らを犠牲にしてまで他人や国家の幸せのために戦った人はたくさんいた。日本人はそんな台湾人を皆殺しにしたのだ。

台湾人による最大の反日運動は1930年の霧社事件である。霧社事件で戦死した日本人は靖国神社に祀られており、小泉純一郎総理のころから行われている靖国神社参拝は、現在も未解決の大きな問題である。3作品を通して、過去の台湾と日本間の事件についても私たちが考えなくてはならないことがたくさんあることに改めて気付いた。日本が台湾に対して犯した罪は決して許されるものではない。現代の私たち日本人ができることは、このような事実があったことを過去のものとして受け流さず、事実として受け止め、これからの世代にも伝えること、そしてこの台湾統治時代の約50年のことを受けて、これから自分達は台湾人にどう接していけばよいのか、どう接するべきなのかを考えることではないだろうか。私たちに課せられた課題は重く、大きいものである。過去に日本人が犯した罪を償う責任は、過去の人たちだけでなく、現代の私たちにもあるのだ。
# by m-seminar | 2012-04-16 01:12 | レジュメ(平成24年度入ゼミ生)

4月10日提出課題

4月10日火曜日 4限 研究ゼミ1

課題レポート
選択した文章…『三本足の馬』

 私は、『三本足の馬』というタイトルを一目見たとき、以下のように感じた。一般的に人々の常識で知られている馬という動物は、4本の足を持っている。しかし、タイトルを一目見て私は違和感を覚えた。馬と言えば、草原を颯爽と走りぬける印象があったからである。馬は3本足では走ることが難しい。私は馬という動物に関しては専門的な知識は全く持ち合わせていないので、走ることはおろか、移動をすることも不可能かもしれないと予想する。では、この『三本足の馬』というタイトルには、どんな意味が、あるいはどんな思いが込められているのだろうか。私は、そんな疑問を抱きながらこの文章を読み進めていった。
 『三本足の馬』の主人公の曾吉祥は、幼いころから「白いあざのある鼻」を持ち、友人たちや初対面の人にまで揶揄される。悪意を持って揶揄されることに不快感を覚えない人はほとんどいない。更に、当時の曾吉祥は、どんな意識を持っていようが被植民者には変わりなかったのである。彼は、周囲から自分に向けての言葉や態度によって彼自身の内面に劣等感を抱き、しかし、同時にその劣等感に対して反発しようとする意識も少なからずあったのではないかと考える。その、劣等感に対する反発が、曾吉祥を警察の組織としての存在の認識による「新しい」自己の確立を目指すことへの背中を押したのではないか。先ほど私が記した「新しい」という言葉であるが、これは以前の自分とは違った自分、つまり、既に変わった自分ということができる。曾吉祥の場合の以前の自分とは、周囲の中傷の言葉を受けて劣等感を抱いている状態のことであり、既に変わった自分とは、それに反発する意識によって劣等感を払拭しようとしている状態である。曾吉祥の場合は、テキスト(『三本足の馬』語られ始めた現代詩の沃野 202頁1行目から12行目)にも書かれている通り、そのスティグマ(恥辱)を晴らすために、同じく被植民者である台湾人の賭博行為を警察に通報することによって警察の一部となり、自分の存在を認識しようと試みたわけである。後に、台湾における日本統治時代が終息を迎えた時に、曾吉祥は台湾社会において裏切り者のレッテルを貼られた。日本統治の圧力に対する抵抗に乗り出した台湾人は、自らの安定した生活を奪った日本人に対して暴力を用いて反発したが、それと同時に日本政府の台湾統治に加担した台湾人に対しても暴力を用いて反発した。被植民者としての台湾人にとっては、日本統治に加担した台湾人も、自らの生活を奪った者には違いないのである。曾吉祥は日本政府の警察の一部となって活動していたのであるから、多少なりとも日本人への帰属意識を持っていたのではないか。当時の人々の意識において、「台湾人」と「日本人」の線引きはどこであり、また、一体何を明確な基準として区別しているのか。そもそも、その両者は容易に区別ができるものなのであろうか。私は、「台湾人」「日本人」という2つの単語を思い浮かべた時に、その答えを導き出すのは容易でないと理解していながらも咄嗟にこういった疑問が湧いてきたのである。
 『小説』の主人公である曾淵あにいは、警察組織から逃げ回った。自分は犯人であるのか。そうであるならば、その事情を受け入れて刑に服することを決心するが、やはり彼も人間で、刑罰にただならぬ恐怖を感じているのである。『山道』に登場する蔡千恵は、流暢な日本語で手紙を書き、若い少女が夢見る将来の幸せな安定した生活を奪った形となった日本政府の台湾統治政策に反発しながらも、自らは苦労することを選んで既に亡くなった李国坤の妻を装って李一家に尽くすことを決心した。『三本足の馬』の曾吉祥は、『小説』の曾淵あにい及び『山道』の蔡千恵に比べて、自らの立場を大きく変えたという印象を抱いた。つまり、曾吉祥は、他の2者に比べて自分の意識をより日本人に近いところに持っていったのである。ただし、いくら日本人に近い意識と言っても、日本政府から見れば、彼はただの番犬のような存在に過ぎず、被植民者にすぎなかったのである。
 1895年に下関条約の結果、台湾の領有権は日本が握り、台北に総督府が置かれた。それから、台湾の日本統治が本格的に始まったと言えるが、元来台湾に居住していた人は日本風に名前を変えることを余儀なくし、学校では日本語による日本風の教育をなされ、日常の会話も日本語を使うことを奨励された。つまり、台湾人は日本政府による皇民化政策を受け、事実としては一概に言いきれないところもあると思うが、日本政府の徹底的な教育改革や数々の政策によって、台湾人は自らのアイデンティティが揺らいでしまったのだという印象を私は持った。数多くの台湾人の中には、自らは台湾人であり、これっぽっちも日本人ではないという意識を持っていたものもいると思う。あるいは、日本式の教育や政策を受けて自らは台湾人でありながら、日本人としての意識も持ち合わせていた人もいたのかも知れない。当時の台湾における日本の植民地政策において、「台湾人」と「日本人」の区切りは明確な物差しは存在せず、人々の意識の中にそれぞれのアイデンティティが強く存在するが、時には周囲の環境によってそれが否定されることもある。自らは、「台湾人」の血を引くが、「日本人」としてのアイデンティティも自分の中に存在する時、身体は意識とは異なり、自らは完全な「日本人」ではないということに気付く。また、「日本人」の支配を受けていながら「台湾人」としてのアイデンティティが自分の中に存在する時、言葉や制度などが元来の台湾のものとは違う日本式のものになっていると気付いた時、自らはもしかしたら完璧な「台湾人」とは異なる存在なのかもしれないという考えに至る。そして、自分のアイデンティティを確定させる要素の不足を感じる。その時、「何かが足りない」という意識が『三本足の馬』の、もう一本の「足」であるのかもしれない。

(タイトル等を除いて2400文字)




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4月10日火曜日 4限 研究ゼミ1

課題レポートに関するレジュメ
選択した文章…『三本足の馬』


◎タイトル『三本足の馬』を一目見た時の私の印象
 → 一般に知られている馬という動物とは違い、3本足を持つ馬は違和感を覚える。


 疑問「このタイトルにはどのような意味が込められているのであろうか。」


◎『三本足の馬』の中心的な人物である曾吉祥という人物
周囲からの中傷・侮辱
    ↓
 内面に抱く劣等感への反発
     ↓
 警察組織への所属による自己の確立
(『小説』の曾淵あにい・『山道』の蔡千恵より更に制度・身分的に日本により近い)
     ↓
 日本統治時代が終息を迎えた時、自分はあくまで被植民者にすぎないと再認識


◎作品の時代背景における「日本人」と「台湾人」の違いとは何か。
 → 「台湾人」と「日本人」の区切りは明確な物差しは存在せず、人々の意識の中にそれぞれのアイデンティティが存在するが、時には周囲の環境によってそれが否定されることもある。
   血筋「台湾人」/制度や言葉など「日本人」
   1…「台湾人」<「日本人」の意識 しかし、身体的に日本人ではない。
   2…「台湾人」>「日本人」の意識 しかし、制度や言葉は台湾式でない。
   → 自らのアイデンティティの確定材料の不足


結論「自らのアイデンティティを確立させる上で「何かが足りない」という意識が
『三本足の馬』の、もう一本の「足」である。」


以上です。モリ
# by m-seminar | 2012-04-15 16:22 | レジュメ(平成24年度入ゼミ生)