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by m-seminar

グループ発表前準備

なんだかテラ長いレジュメになってしまった(爆)

箕輪幸香

グローバル化(インターナショナリズム)と
ナショナリズムの間で揺れる日本の歴史教育


さて、この章では日本の歴史教育の実態を、歴史教科書をもとに考えていこうと思う。まずは日本の歴史教科書はどのように作られているのかについて見ていこう。歴史教科書には2つの種類がある。一つは国定教科書と呼ばれるものである。これは国(政府)が発行して生徒に使用を義務づけるもので、かつての日本の教科書はこの国定教科書であった。(1872年に義務教育制度が始まった頃は検定済教科書が用いられていた。しかし、教科書疑獄事件の発生をきっかけに、国定教科書に改められた。)かつての日本や、現在の韓国や北朝鮮、タイ、マレーシア、イラン、ミャンマー、ロシア、トルコ、キューバ、リビアは、国定教科書の制度を採用している。二つ目は検定教科書と呼ばれるものである。これは民間が発行を行っているもので、国家(政府)の検定を通過したもののみが教科書として認められる。現在の日本の教科書ではこの検定教科書が使われている。ちなみに中国では、それまでの国定教科書制度から1980年代からこちらの検定教科書に移行してきている。この検定教科書だが、実際にどのような検定が設けられているのかこれから説明していきたいと思う。

文部科学省検定教科書
まずは日本の歴史教育にはどのような目的があるのか、文部科学省が出している「高等学校学習指導要領解説 地理歴史編」の中から見ていくと、第一章総説の第一節改訂の趣旨、1改訂の経緯というところでこのようなことが書かれている。
以下はそのまま引用したものである。

21世紀は,新しい知識・情報・技術が政治・経済・文化をはじめ社会のあらゆる領域での活動の基盤として飛躍的に重要性を増す,いわゆる「知識基盤社会」の時代であると言われている。このような知識基盤社会化やグローバル化は,アイディアなど知識そのものや人材をめぐる国際競争を加速させる一方で,異なる文化や文明との共存や国際協力の必要性を増大させている。このような状況において,確かな学力,豊かな心,健やかな体の調和を重視する「生きる力」をはぐくむことがますます重要になっている。

つまり、このことから少なくとも日本の高等学校における歴史教育は、グローバル化に対応できる、インターナショナルな人材の育成を日本という国家単位で促進し、目指していることがわかる。歴史教科書においてもこのことが求められているということはいうまでもない。民間の教科書作成会社はこのような国によって定められた学習指導要領、そして教科用図書検定利用規則に書かれていることを満たしていなければ教科書として世に送り出すことはできないのだ。
ではなぜ、国による厳正な検定を突破し、教科書として認められたものを使い勉学に励んでいるのにも関わらず、他国から批判的な意見があげられているのか。これでは国の目指すグローバルな人間育成にはならないのではないのか。またその原因はどこからくるものなのか、今度はそのあたりを考えていこうと思う。

検定教科書の罠
 今の小、中、高の学生の中でどれだけの学生が、今自分が使っている教科書に疑いや疑問を投げかけたことがあるのだろうか。おそらく皆無に等しいのではないであろうか。私自身、学生のころ公式の暗記や歴史年表の暗記に必死で、教科書の内容なんて考えたことがなかった。正しく言えば、“教科書を疑う”という概念すら存在してはいなかった。根拠なき絶対的信頼と言えばいいだろうか。「よく知らないけど、学校側が与えたものなのだからちゃんと考えられたものなんだろうし、大丈夫でしょ。」という何とも緊張感のない安易な考えしかなかった。おそらく現代の学生たちにおいても同じことだと思う。これは学生だけでなく教師にも言えると思う。特に新人の若い教師は、学校側から与えられた教科書を指導要領に即して授業を行うのみで、教科書についてはあまり関心のない教師もいるのではないか。この絶対的信頼というフィルターを通して見られた教科書は常に正しいことのみ書かれていると思はれがちだがそうではない。ここに検定教科書の罠が存在している。
 先ほども述べたように検定教科書は様々な民間企業の手によって作られている。つまり、ひとくくりに教科書と言っても全ての教科書が同じことを書いているわけではなく必ず“個性”が存在するのだ。この個性が教科書問題を生んでいる原因である。では実際に例をあげて見ていきたいと思う。
1996年に結成された日本の社会運動団体である「新しい教科書をつくる会」をごぞんじであろうか。彼らのホームページに載せられた趣意書の中にこのようなことが書かれている。

戦後の歴史教育は、日本人が受けつぐべき文化と伝統を忘れ、日本人の誇りを失わせるものであり、特に近現代史において、日本人は子々孫々まで謝罪し続けることを運命づけられた罪人の如くにあつかわれています。冷戦終結後は、この自虐的傾向がさらに強まり、現行の歴史教科書は旧敵国のプロパガンダをそのまま事実として記述するまでになっています。                 新しい教科書をつくる会HPよりそのまま引用

つくる会の創始者である藤岡はこれまでの日本の教科書は自虐的史観に偏りすぎていて、これでは歴史を学ぶ子供たちが自分の国に誇りや愛を持つことはできないという考え、子供たちが日本に誇りを持てるようにという理念のもと、この会を立ち上げた。一見すると問題はなさそうだが、彼らの言う“自虐的史観”の徹底的な排除が偏った歴史教育につながっているのだ。具体的にどのようなことが行われているかと言うと、従軍慰安婦、南京事件、強制連行や日本軍による虐殺など“自虐的史観”と呼ばれる部分の記述が彼らの作る教科書から全て排除されているのだ。日本の良い部分を取り上げ、影の部分は切り捨てる。こんな教科書で正しい歴史教育ができるのだろうか。しかし、このような教科書を作っているのは、つくる会だけではないのだ。つくる会の産みの親と言える、「自由主義史観研究会」という会はつくる会のさらに上を行く“スーパーナショナリズム”的考えを持つ会である。彼らの活動は教科書の中だけにとどまらず、政治の中にまで足を踏み入れている。このような会によって作られた教科書が学生たちの手に行きわたっているのだ。それを根拠なき絶対的信頼によって正しい歴史と思いこみ勉強してしまっているのだ。

超ナショナリズム教育の危険性
 ではこのような教科書がどのような危険性を招く恐れがあるのか考えてみたい。自分たちの輝かしい功績を強調し、影の部分は切り捨てる。このように偏った歴史教育からでは誤った認識が形成されかねない。今の中国の国民がまさにそれを体現していると言えるかもしれない。いやむしろ、ごく一部のナショナリズムあふれた中国国民が暴徒化している現象と日本においてナショナリズムを推し進めようとし政治的分野まで活動の幅を伸ばし(つくる会は過去に、アメリカから従軍慰安婦問題の責任を日本政府に問われたときに大きな反発の姿勢を示したこともある。)活動しているこの現象は暴力的行為がなかっただけで、中国の暴徒と根本的なところは同じなのではないであろうか。また、ナショナリズムの高まりと経済悪化などの様々な要因が重なることで、排他的民族国家主義が生まれる危険性もある。表立ってはいないが現在の日本にもそのような傾向を目にすることができる。(ネットなどでは在日朝鮮人は日本から出ていけなどとする書き込みも多数投稿されている)このような動きが表面化されたら、まさに悪夢と言えるだろう。
自国に対する愛や誇りは素晴らしいことだが、それによって他のことを正しく理解しようとする姿勢や目を失ってしまっては、他国との相互理解、ひいてはグローバル社会を生きていくことなどできないのではないであろうか。極端なナショナリズムは日本を高めるどころか衰退させる危険性しかないと私は思う。

原因と解決策
このような危険を回避するために、内容に偏りのある教科書が世に広まらないように検定と言う検査があるのではないのか、と思うかもしれないが、決められたことさえ守っていれば検定を通り抜けてしまうのだ。このような教科書を許可してしまう国のシステムも問題があるが、このような民間団体が存在していることにも問題がある。このような会は会員の年会費や賛同者からの募金で成り立っている。つまり、このような考えに賛同している“ナショナリズム支持者”が多数いるということである。これは大変恐ろしく、簡単に片づけられる問題ではない。たとえ「新しい教科書をつくる会」や「自由主義史観研究会」がなくなったとしても、日本の中に一人でも“ナショナリズム支持者”がいる限り、また新たな民間団体が創設されるのは想像に難くない。
民間団体も止められない、国の検査も通ってしまうのでは子供たちを誤った歴史教育から救うことはできないのか。まだ一つだけ解決策がある。教科書が子供たちの手にわたる前の最後の砦である。その壁となるのが教育委員会と学校(校長)である。公立の小学校、中学校、中等教育学校前期課程、特別支援学校(初等部・中等部)といった義務教育諸学校の場合、教育委員会に教科書採択権があるとされ、国立・私立の義務教育課程学校、および高等学校における教科書採択権は学校側にあるのだ。つまり、教育委員会や学校側が誤った教科書選びをしなければ学生たちを偏った内容を教える教科書から守ることができるのだ。そのためにも、教育委員会や学校側の人間は冷静でいて平等な目を持っていなければならない。その目を養うのもやはり学生時代における教育も関係していると言えるであろう。教育の重要性や影響力が巡り巡って様々なことと関係しているのである。それほどまでに教育というものは力を持ちだからこそ正しい教育が求められているのだ。
by m-seminar | 2012-10-09 01:43 | レジュメ(平成24年度入ゼミ生)