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呉新栄について

呉新栄について 0410026 皆川真里江

呉新栄は1907年生まれの台湾文学者であり、政治家や医師でもある。字は震瀛と言った。父親は有名な漢詩詩人の吳萱草。15歳の時呉新栄は台南総督府商業学校に入り、在学期間中に英語の先生の林茂生に影響を受けて写実主義的な文芸思潮と革命的な社会思想を生み出し、これが後の彼の思想の基盤となる。商業学校を卒業後、日本に留学して、東京に進出して医療を学んだ。学業は非常に忙しかったが、呉新栄は文学がやはり好きだったので、《滄海》や《南瀛》などの留学生の刊行物上で詩や評論を発表していた。1932年9月、呉新栄は故郷に帰って伯父の「佳里医院」を受け取って小鎮で医者になった。もちろん名医になることを望んではいたが、患者の病気を治療するというだけでなく、社会全体の治療もしなければならないと考えていた。そのためには植民地台湾の差別待遇や農村の経営困難から人々を救いたいという強い願いを持ち、一方では医学を使って、一方では文学を使ってその希望を実現しようとした。1933年10月、呉新栄は郭水潭、鄭國津、徐清吉、陳培初、黃清澤、葉向榮などと一緒に「佳里青風会」を立ち上げた。さらに彼は病院で仕事をしていた後「小雅園」を建てて、固定的な集会場所を作った。さまざまな理由があり「佳里青風会」は2カ月ほどで解散を宣言した。しかしこの個人文学の成員は流失せず、1935年台湾文学連盟が佳里で支部を立ち上げた時、彼らはもう一度集まって正式に台湾文学の舞台に上がった。彼らの文学は台湾統治時期の台湾文学だけでなく文化革命時にかなり重要な役割を担っており、さらに、郷土文学が台頭した1980年代、台湾文学のもっとも重要なものを伝承する作業を行っていた。呉新栄はこのグループの指導者であった。なお、このグループの名前は「塩分地帯」という。
1935年から第二次世界大戦末期までは「塩分地帯」の文学は盛んで発展時期であり、呉新栄個人の文学の創作も、最も豊作な時期であった。彼の多くの重要な詩はすべてこの段階に完成し、1942年に発表した「亡妻記」や台湾版の「浮生六記」はすばらしい作品だとされた。呉新栄は写実主義とロマンチシズムの詩人であり、彼は郷土の人々に心から愛されていて、ロマンチックな情緒に満ちていた。一方で勇敢に社会の暗黒面を取り上げて実直に批評を言い表し、天下に自分の熱意を持っている。
1967年、呉新栄は台北で心臓病を発病し、数多くの新体詩、評論、随筆党の作品を残したままこの世を去る。

参考資料
台湾文学作家系列 6月12日閲覧 中央廣播電台 Radio Taiwan International
http://www.rti.org.tw/ajax/recommend/Literator_content.aspx?id=78

中国図書専門 研文出版 6月12日閲覧 山本書店代表:山本實  
http://www.kenbunshuppan.com/book/taiwan/taiwan1.html
by m-seminar | 2012-06-25 20:28 | レジュメ(平成24年度入ゼミ生)